第2話 火星はもう地球ではない
地球は、確かに動いていた。
それはゆっくりと、しかし確実に、太陽から離れていく運動だった。
管制室の巨大スクリーンに映る太陽は、日を追うごとに小さくなっていく。かつて空を満たしていた圧倒的な光は、いまや宇宙の中の一つの星に過ぎない。
誰もが理解していた。
本当に出てしまったのだ、と。
人類は、太陽系を。
「……マジで行ってるな」
モリト・アークは、管制席に座ったまま呟いた。
足元に伝わる微細な振動。惑星推進炉の鼓動。わずかな重力の揺らぎ。
それらすべてが、“地球が船になった”という現実を否応なく突きつけてくる。
だが、彼の頭の中を占めていたのは、別の問題だった。
《モリト・アーク補助官》
まただ。
あの声。
どこからともなく響く、静かな声。
「……だから人違いだって言ってるだろ」
モリトは小声で返した。
周囲には聞こえていない。少なくとも、そう信じたかった。
《現在、地球航法中枢は安定稼働中。あなたへの権限接続は正常です》
「正常じゃない。全然正常じゃない。俺はただの資料係だぞ」
《訂正。あなたは“地球航法権限保有者”です》
「そんなものに応募した覚えはない」
《応募制ではありません》
即答だった。
モリトは頭を抱えた。
「……なんで俺なんだよ」
《適性値、思考パターン、意思決定傾向、全ての条件を満たしています》
「もっと他にいるだろ。天才とか英雄とか」
《彼らは“正解を選ぶ”傾向があります》
「それの何が悪い」
《本航海において必要なのは、“正解を創る者”です》
その言葉に、モリトは一瞬だけ黙った。
意味は分からない。
だが、妙に引っかかった。
「……つまり俺は、適当にやる人間ってことか?」
《不確定要素を許容できる人間、と定義します》
「言い方が優しいだけだな、それ」
ため息をついた、その時だった。
管制室に警報音が鳴り響いた。
けたたましいアラートが、空気を切り裂く。
「全員、配置につけ!」
「通信チャンネル、全帯域開放!」
「外部信号を検出、識別急げ!」
怒号が飛び交う。
モリトも反射的に端末を操作した。
ディスプレイに映し出されるのは、未知の信号パターン。
いや――未知ではない。
解析が進むにつれて、その正体が浮かび上がる。
「……これ」
モリトは思わず呟いた。
「人類の規格……?」
《通信元、識別完了》
ガイアが告げる。
《発信源――火星独立艦隊》
その瞬間、管制室の空気が凍りついた。
誰もが知っている名前だった。
地球統一政府への合流を拒み、独自に宇宙進出を進めた火星移民。
彼らは地球の支援なしに技術を発展させ、ついには自前の惑星航行計画を完成させた。
そして――姿を消した。
「繋げ」
上層席から低い声が響く。
統合航宙軍司令、レイヴン元帥。
その一言で、全てが動いた。
「回線確立します!」
「映像出ます、三、二、一――」
スクリーンが切り替わる。
そこに映し出されたのは、赤い光だった。
火星の大地を思わせる、鈍い赤。
そして、その前に立つ人影。
強化外骨格に身を包んだ、男。
その目は、人間のものだった。
だが、その奥にあるものは――違った。
『こちら、火星独立艦隊司令部』
低く、硬質な声が響く。
『地球統一政府へ告げる』
誰も言葉を発さない。
ただ、その声を待つ。
『我々は、貴様らの統制下に入る意思はない』
予想されていた言葉だった。
だが、実際に聞くと、重さが違う。
『我々は、火星人だ』
その一言が、決定的だった。
彼らはもう、自分たちを“地球人”とは呼ばない。
『セカンドサンに関する情報は把握している』
管制室がざわめく。
やはり、知っていた。
『そして理解している』
男の視線が、まっすぐこちらを射抜く。
『ハビタブルゾーンは有限だ』
その言葉に、全員が息を呑んだ。
『すべての惑星が生存できるわけではない』
モリトの手が、無意識に震えた。
『ゆえに――』
一瞬の静寂。
そして。
『その座は、我々が確保する』
完全な宣言だった。
交渉ではない。
通告でもない。
これは――
宣戦布告だ。
「待て!」
誰かが叫ぶ。
「まだ協議の余地は――」
だが、男はそれを遮った。
『地球は、古い』
冷たい言葉だった。
『非効率で、感情に支配され、全員を救おうとする』
モリトの胸がざわつく。
『その思想では、生き残れない』
男の目が細められる。
『選ばれた者だけが、生きるべきだ』
その瞬間、モリトは理解した。
これはただの戦争じゃない。
思想の衝突だ。
『最後に一つ、忠告しておく』
男は言った。
『我々は、もう地球ではない』
通信が切れた。
静寂。
重い沈黙が、管制室を覆う。
誰もすぐには動けなかった。
そして、やがて。
「……再接続を試みろ」
「応答なしです」
「外交チャンネルは?」
「拒否されています」
淡々と報告が上がる。
現実が確定していく。
モリトはスクリーンを見つめた。
もうそこには、火星の姿はない。
ただ、星の海が広がっているだけだ。
《状況分析》
ガイアの声が響く。
《火星勢力は敵対行動を選択しました》
「……そうだな」
モリトは小さく答えた。
《今後、衝突の可能性は極めて高いと予測されます》
「だろうな」
短く息を吐く。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
人類は一つになったはずだった。
太陽の死という絶望の前で。
だが、それは違った。
ただ、“敵が同じだった”だけだ。
生き残る場所が一つしかないと分かった瞬間――
人類は、再び分かれた。
今度は、惑星ごとに。
モリトは目を開けた。
スクリーンの向こうには、無限の宇宙が広がっている。
そのどこかに、第二の太陽がある。
そして、その周りには――限られた“席”がある。
「……席取りかよ」
思わず漏れた言葉に、自分で苦笑した。
あまりにも、あまりにも人間らしい争いだ。
《航路計算を開始しますか》
ガイアが問う。
モリトは少しだけ考えた。
そして、答えた。
「やるしかないだろ」
その声は、もう震えていなかった。
「全員、生きて辿り着くためのルートをな」
《了解》
静かに、しかし確かに。
《最適航路の創造を開始します》
その日、人類は再び分裂した。
今度は――宇宙規模で。
そして、戦いが始まる。
生きる場所を巡る、惑星同士の戦争が。




