第1話 太陽が死ぬ日
太陽が死ぬ。
それが発表された日、世界中の戦争が止まった。
ミサイルの発射ボタンに置かれていた指が止まり、戦闘機は空母へ帰投し、国境線で睨み合っていた兵士たちは、互いに銃口を下げた。
誰かが命令したわけではない。
ただ、全員が理解してしまったのだ。
敵国を滅ぼしたところで、太陽が消えれば、勝者も敗者もなくなるのだと。
西暦二二四五年。
国際太陽観測機構は、百年分の観測データを再解析した結果、太陽内部の核融合反応が予測不能な速度で不安定化していると発表した。
残された時間は、長くて五十年。
短ければ、三十年。
人類にとってそれは、明日と同じだった。
「……終わったな」
地球航法局、地下第七観測室。
モリト・アークは、モニターに映る太陽の断面図を見ながら、乾いた声でつぶやいた。
彼は英雄ではない。
天才科学者でもない。
地球統一政府の下級職員。肩書きだけなら、航法補助官。
要するに、上司に言われたデータを整理し、会議資料を作り、たまにプリンターの紙詰まりを直す男である。
その彼の目の前で、太陽は赤く、黒く、歪んでいた。
人類の母なる恒星。
朝を連れてきて、海を温め、森を育て、すべての生命を支えてきた光。
それが、死にかけている。
「モリト補助官」
背後から声がした。
振り返ると、白衣姿の女性が立っていた。
地球統一政府宇宙移民計画室長、エレナ・クォーツ博士。
人類で最も太陽の死に近い場所にいる科学者だった。
「再計算は?」
「終わりました。結果は……変わりません」
モリトは端末を操作し、最終予測を表示した。
画面に浮かぶ数字。
太陽活動限界到達予測。
最短、二十八年。
最大、四十九年。
エレナはしばらく黙った。
そして、静かに息を吐いた。
「各国首脳には?」
「もう送信済みです。もっとも……各国という言葉も、今日で意味がなくなるかもしれませんが」
モリトの言葉は、皮肉ではなかった。
事実だった。
数時間後、人類史上初の全世界同時声明が発表された。
すべての国家は即時停戦。
すべての国境紛争は凍結。
すべての軍事予算は、人類生存計画へ転用。
その日、人類は初めて知った。
共通の敵が現れたとき、人間は本当に一つになれるのだと。
敵の名は、滅亡。
そして、勝利条件はただ一つ。
地球ごと、太陽系を脱出すること。
誰もが最初は笑った。
地球を動かす?
惑星を宇宙船にする?
そんなものは子供の空想だと。
だが、人類は本気だった。
北極圏に重力制御塔が建設された。
太平洋の海底に惑星推進炉が埋め込まれた。
月には軌道制御基地が築かれた。
都市は地下へ潜り、海上には巨大なエネルギー回収施設が並び、地球そのものが少しずつ、巨大な船へと姿を変えていった。
計画名は――
宇宙船地球号計画。
その名が正式決定された日の会議で、モリトは資料係として端っこに座っていた。
偉い人たちが重々しく頷く中、彼は小さく思った。
名前、ちょっと直球すぎないか?
だが、口には出さなかった。
下級職員には、世界を救うより先に空気を読む能力が必要だった。
それから十年。
人類は生き延びるために、すべてを変えた。
国旗は姿を消し、代わりに青い地球を描いた統一旗が掲げられた。
軍隊は地球防衛航宙軍へ再編され、兵器工場は推進炉と外殻シールドの製造ラインになった。
学校では、子供たちが新しい挨拶を覚えた。
『よい航海を』
それが、未来への祈りになった。
そして、さらに七年後。
人類はついに見つけた。
太陽系外縁観測網が捉えた一つの恒星。
スペクトル、質量、寿命、放射量。
どれも太陽に酷似していた。
人類はそれを仮にこう呼んだ。
セカンドサン。
第二の太陽。
そこには、地球が生きられる可能性があった。
ただし、問題が一つあった。
セカンドサンの周囲で生命が維持できる範囲――ハビタブルゾーンは、限られている。
地球がそこに入れなければ、人類は終わる。
モリトは巨大スクリーンを見上げた。
青く輝く地球。
その隣に浮かぶ月。
そして、遠く離れた赤い惑星、火星。
地球だけではない。
火星に移住した人類もまた、セカンドサンを目指していた。
彼らは地球統一政府への合流を拒んだ。
自分たちはもう地球人ではない。
火星人だ。
彼らはそう名乗った。
「地球航法局、全系統起動」
管制室に声が響く。
出航の日だった。
モリトの手元に、発進承認の確認画面が表示される。
彼の役目は小さい。
ただ、最終航路データに異常がないか確認し、上司へ送るだけ。
それだけのはずだった。
だが、その瞬間。
端末に見慣れない表示が浮かんだ。
《航法中枢AIガイア、個体認証開始》
「……は?」
モリトは固まった。
《認証完了。地球航法権限、暫定接続》
「いやいやいや、待て待て待て」
彼は慌てて周囲を見回した。
誰も気づいていない。
大型スクリーンでは、カウントダウンが進んでいる。
十。
九。
八。
《モリト・アーク補助官》
頭の中に、声が響いた。
女性とも男性ともつかない、静かな声。
《あなたは、地球を導く者として選定されました》
「人違いです!」
思わず叫んだ。
隣の職員がぎょっとしてこちらを見る。
「どうした、モリト?」
「い、いえ。何でもありません。ちょっと人生に人違いが起きまして」
「意味が分からん」
意味が分からないのはモリトも同じだった。
三。
二。
一。
ゼロ。
その瞬間、地球が震えた。
海がうねり、山脈が軋み、大気が青白く輝いた。
惑星推進炉が一斉に火を噴き、重力制御塔が空間をねじ曲げる。
地球は、動き出した。
人類の故郷が。
生き残るために。
太陽系を離れるために。
セカンドサンを目指して。
《航海を開始します》
ガイアの声が告げる。
《宇宙船地球号、発進》
モリトは震える手で端末を握りしめた。
目の前のスクリーンに、遠ざかる太陽が映っていた。
死にゆく光。
生まれたばかりの航海。
そして、彼はまだ知らない。
この旅の先で、地球と火星が、同じ未来を奪い合うことを。
第二の太陽を巡る、惑星同士の戦争が始まることを。
そして自分が、その中心に立たされることを。
ただ一つだけ、分かっていた。
もう、引き返せない。
地球は船になった。
人類は乗客になった。
そして、太陽はもうすぐ消える。
――宇宙船地球号の長い旅が、始まった。




