9話 お互いに意識する別れのカウントダウン
やわらかな午後の光が、窓辺のレースカーテンを透かしてリビングに注ぎ込んでいた。
机の上には、見慣れた木箱の救急セット。
私はいつものようにナイフと清潔な布を並べ、ソファに座るユーリに向き合った。
「それじゃあ、ユーリさん。今日も傷の様子を見せてくださいね」
「ああ、よろしく頼む」
ユーリは慣れた手つきで、服の袖を上までまくり上げてくれた。
私が手に触れたのは、彼の右腕に幾重にも巻きつけられた包帯だ。
出会った当初は血が滲み出ていて、私を青ざめさせたあの傷痕。
結び目をほどき、白い布をゆっくりと解いていく。
くるくると包帯が解けるたび、かすかに薬品の香りが部屋の中に漂った。
最後のひと巻きを外し、彼の肌が露わになった瞬間、私は思わず小さな息を漏らした。
そこにはうっすらと白い線のような傷痕が残っているだけで、もう何の心配もなくなっていた。
「……すっかり、塞がっていますね」
自分の指先で、そっと傷痕の周囲を撫でてみる。
熱も引いていて、すべらかな肌の感触だけが伝わってきた。
「傷跡が少し残っていますが……綺麗に治りました。もう包帯を巻く必要はありませんよ、ユーリさん」
「そうか……」
ユーリは自分の腕を見つめ、それから感謝を込めたような煌めく瞳で私を見上げてきた。
「君の手当てのおかげだ。毎日欠かさず看病してくれたから、こんなに早く治ったんだな。本当に、ありがとう」
「お医者様を呼べなかったときはどうなることかと思いましたけれど、無事に良くなって本当に良かったです!」
私は心からの笑顔を向けた。
怪我をした人間が元気になる。
それは間違いなくおめでたいことで、喜ぶべきことだったはず。
「これで腕も自由に動かせますね」
「ああ……そうだな。本当に、助かった」
笑顔で言葉を交わし合う。
けれど、歓喜の余韻が引いていくにつれて、部屋の中に奇妙な沈黙が生まれた。
(あ……)
木箱に包帯を片付けようとした私の指先が、ぴたりと止まる。
傷が治ったということは、手当てをする理由がなくなったということだ。
そしてそれは同時に、彼がこの家に留まる理由もまた、失われたことを意味していた。
先ほどまでの高揚とした空気が、嘘のように静まり返っていく。
木箱の蓋を閉める音が、室内でやけに耳につくように響いた。
「……アイリス」
「は、はいっ!」
不意に名前を呼ばれ、私は弾かれたように肩を揺らした。
「どうかしましたか、ユーリさん? 何かまだ痛みでも……」
「いや、痛みはないんだ。ただ……」
ユーリは言葉を濁し、何かを言いかけるように口を開いたが、結局そのまま言葉を飲み込んでしまった。
彼の空色の瞳が、どこか迷うように部屋の隅へと泳ぐ。
私もまた、次にどんな言葉をかければいいのか分からなくなっていた。
『これで、もうここを出ていってしまうのですか?』
『いつ旅立ってしまうのですか?』
胸の奥まで出かかった問いかけは、あまりにも重くて、喉に引っかかったまま外に出てくれない。
そんなことを尋ねてしまえば、彼との穏やかな時間が本当に終わってしまう気がして怖かったのだ。
(ダメよ、私。怪我が完治したのなら、笑顔で見送るのが命の恩人としての役目でしょ……?)
頭ではそう分かっているのに、胸の奥が締めつけられるように痛む。
目線をどこへ向ければいいのか分からず、私はテーブルの上の片付けにやたらと没頭することにした。
ユーリもまた、ソファに座ったまま、治った自分の腕をじっと見つめている。
私たちの間に流れるのは、今まで一度も経験したことのない、ぎこちない時間だった。
言葉を選ぼうとするたび、沈黙の重みが増していく。
互いを意識すればするほど、相手の顔を見ることができなくなっていた。
「……アイリス」
「え、ええと! お茶でも淹れましょうか! 喉が渇きましたよね!?」
部屋の静けさに耐えかねた私は、ユーリの声をさえぎるようにして立ち上がってしまった。
あまりにも性急な動作だったせいで、少し足元がよろめいてしまう。
ユーリは驚いたように目を見張り、それから小さく苦笑いを浮かべた。
「……ああ。急に立ち上がって大丈夫か?」
「だ、大丈夫です! ちょっと慌てちゃっただけで……」
背中を向けたまま、私は彼に見えないように手を握りしめた。
振り返れば、ユーリがどんな表情で私を見ているのか分かってしまう。
それが怖くて、私は逃げるようにキッチンへ向かうことしかできなかった。





