8話 他愛のない食事の時間、終わりが近づく幸せ
昨日の買い出しを経てからというもの、私とユーリの間の空気は、どこか柔らかいものへと変容していた。
頭につけた青い硝子の髪飾りは、私の宝物だ。
毎朝鏡の前に立つたび、指先でそっと触れては照れくささと嬉しさに唇をゆるませている。
そんなある日の夕方、私が夕食の準備をしようとキッチンに立つと、後ろから足音が近づいてきた。
「アイリス、俺も手伝わせてほしい」
振り返ると、ユーリが袖を少しまくり上げて立っていた。
「えっ、ユーリさんがですか? でも、お怪我もありますし……」
「傷ならもうほとんど塞がっている。いつも君に作ってもらってばかりでは申し訳ない。それに……君と一緒のことがしてみたいんだ」
真面目な顔でそう言われ、私は断れなくなってしまった。
「ふふ、わかりました! それじゃあ、今日はユーリさんのリクエスト通り、スパイスを効かせた辛めの肉スープを作りましょう」
「本当か? 楽しみだな」
パッと目元を輝かせるユーリがなんだか微笑ましくて、私の心に温かい風が吹きこむ。
昨日市場で買ってきた新鮮な野菜と肉をまな板の上に並べならが、横に並び立つユーリを見上げる。
「ユーリさんには、この野菜を同じくらいの大きさに切るのをお願いできますか?」
「任せてくれ」
包丁を手にとったユーリの立ち姿は、まるで熟練の騎士のように無駄がない。
けれど、野菜を切る作業となると話は別だった。
トントン、トントン――。
ゆっくりと、慎重すぎるリズムで包丁が叩きつけられる。
手元をのぞき込んでみると、野菜が恐ろしいほど正確な立方体に切りそろえられていた。
「ユ、ユーリさん。すごく綺麗ですけれど、そこまで完璧にしなくても大丈夫ですよ?」
「……そうなのか? 大きさを揃えた方が火の通りが均一になると聞いたのだが」
「それはそうですけれど、測ったみたいに正確でびっくりしちゃいました」
あまりにも真面目すぎる手つきと作業に私がクスクス笑うと、ユーリは少し照れたように眉を下げた。
「料理はあまり経験がなくてな。手際が悪くてすまない」
「いいえ、とっても助かっています! 料理は愛情ですから、丁寧に作ってくれた方が嬉しいですよ」
そう伝えると、ユーリは嬉しそうに口元を和らげた。
それから二人で並んで作業を進める。
お肉を炒め、野菜を加え、香辛料とともに鍋に投入する。
湯気とともに、辛味と旨味が混ざり合った香ばしい匂いがリビングにまで広がった。
「いい匂いですね。最後に味の調整を……あっ」
鍋の中を覗き込もうと一歩踏み出した瞬間、横にいたユーリと肩が触れ合った。
狭い台所の中、ふと気づけば彼の体温がすぐ近くにある。
「すまない、そこの匙を取らせてくれ」
ユーリが後ろから手を伸ばし、味見用のスプーンを手に取った。
背後からすっぽりと包み込まれるような体勢になり、耳元で彼の澄んだ声が響く。
(っ……!? ち、近い……!!)
胸がドクンと激しく音を立て始めた。
彼が髪に触れるたび、肌の奥まで熱くなっていくのが分かる。
「……うん、丁度いい辛さだと思う。アイリスはどうだ?」
「え、ええっ!? あ、はい! とっても美味しいと思います!!」
動転した私は、味わうのも忘れて上ずった声で答えるのが精一杯だった。
ユーリは私の反応を面白がるように微笑むと、そっと体を離してくれた。
(あ、あぶない、息が止まるかと思った……!)
そこから料理を完成するまでの記憶はあまりなかった。
お皿をテーブルに並べ、二人で向き合って腰を下ろす。
「いただきます」
ユーリはスプーンを取り、スープを口に運んだ。
じっくりと味わうように噛みしめた後、彼の空色の瞳が太陽のように輝いた。
「……美味い。スパイスの香ばしさと肉の旨味がよく出ている。……辛味も効いていて素晴らしいよ」
「よかった! ユーリさんが手伝ってくれたから、いつもより美味しくできたのかもしれませんね」
褒められたことに嬉しくなり微笑むと、ユーリは少し真剣な眼差しで私を見つめ返してきた。
「こうして君と一緒に並んで料理を作り、向かい合って食べる……。こんなにも満ち足りたものだとは思わなかった」
「ユーリさん……?」
「俺にとって、ここは……君と過ごすこの家は、世界で一番温かい場所だ」
飾りのない言葉が、胸の奥へと深くしみ渡っていく。
包丁を注意深く握る姿も、スープを美味しそうに頬張る顔も、私に向けられる穏やかな眼差しも。
すべてが愛おしくて、尊くてたまらない。
(この時間が、ずっと続けばいいのに……)
彼の傷は日に日に良くなっている。
一緒に過ごす日常が幸せであればあるほど、いつか訪れる終わりの刻が怖くなってしまう。
私はその忍び寄る切なさを振り払うように、とびきりの笑顔をユーリに向けた。
「おかわりもたくさんありますから、いっぱい食べてくださいね!」
「ああ、喜んでいただくよ」
和やかな会話とスパイスの香りに包まれながら、夜の静かな時間はゆっくりと過ぎていく。
近づく別れの寂しさに気づかないふりをしながら、私は彼との穏やかな時間を楽しんだ。





