10話 告げられた刻限、気付かないふりをする胸の痛み
私はお茶を淹れながら、懸命に自分の乱れる気持ちを落ち着かせようとしていた。
カップに湯を注ぎ、大きく息をひとつ、ふたつと吐く。
トレイにお茶のカップをふたつ載せてリビングへ戻ると、ユーリは先ほどと同じ場所で、何か言いたげな表情で待っていた。
「お待たせしました、ユーリさん。熱いので気をつけてくださいね」
私はいつものように明るい声を作り、小机にカップを置いた。
向かいの椅子に腰を下ろし、自分のカップを両手で包み込む。
湯気が立ち上る中、ユーリはカップに手を伸ばさず、じっと私を見つめていた。
「……アイリス」
「はい?」
「話さなければならないことがあるんだ」
ユーリの凛とした声が、夜の静けさが落ちた部屋に響いた。
ずっとその予感はしていた。
分かっていたはずだった。
けれど、いざその時が訪れると、胸が、喉が締め付けられるような息苦しい心地になる。
「怪我も良くなった。これ以上、君に甘えているわけにはいかない」
ユーリは一呼吸置き、平静を保ちながら言葉を繋いだ。
「――明日の朝、この家を発とうと思う」
「……っ」
ついに言われてしまった。
残された時間は、あと少ししかない。
嫌だ、行かないで、ずっとここにいてほしい。
そんな身勝手なわがままが、喉のすぐ裏まで押し寄せてくる。
(だめよ、アイリス……! わがままを言っちゃダメ。彼には追われている事情があって、やるべきことや人生があるんだから……!)
私は、湧き上がる感情を胸の底へと押し込めた。
両手で握りしめたカップの温もりにすがりながら、全力で笑顔の形を唇の上に作りあげる。
「……そうですか。明日ですね」
自分でも驚くほど、声と言葉が軽やかに出せた。
「怪我が無事に治って、本当によかったです。どこへ行かれるのかは分かりませんけれど、これで安心して旅立てますね! 手当てをしたかいがありました」
春の花が咲くように、明るい笑顔を作ってみせる。
彼に心配をかけたくない。
自分を救ってくれた命の恩人が、別れ際に暗い顔をしていたら、彼だってここを出発しにくくなってしまうだろうから。
「……アイリス、君は……」
ユーリが私の表情を見て、どこか悲しげな声をかけてきた。
彼を見ていられなくて、私はカップに視線を落としたままだ。
「本当に、感謝している。君が俺を拾ってくれなければ、俺はあの庭で力尽きていたか、追手に捕まっていた。君がくれた温かい食事も、優しい言葉も……俺にとっては、生涯忘れることのない宝物だ」
ユーリの声はどこまでも優しく、そして切なく私の心に反響する。
「だが、俺の存在は君にとって危険でしかない。追っ手の影がいつこの近くまで及ぶかも分からないんだ。君をこれ以上、危険に巻き込むわけにはいかない」
ユーリは強がる私の横顔を包みこむように見つめながら、苦渋に満ちた息を吐き出していた。
彼は、私を守るために去るのだ。
自分と一緒にいることで私に危険が及ぶのを恐れ、去る決断をしてくれたのだ。
お互いに、相手の安全と幸せを第一に祈っているからこその結果だ。
「……ユーリさん」
私は顔を上げ、彼の空色の瞳を見つめ返した。
瞳の奥から込みあげる熱いものを、なんとか笑顔で押し返す。
「感謝なんて言わないでください。私はただ、自分がしたいと思ったことをしただけです。あなたが無事でいてくれることが、私にとって一番のお返しなんですから」
「アイリス……」
「だから、そんなに難しい顔をしないでください。怪我が治って、本当に良かったです」
そう言って笑ってみせると、ユーリは苦しそうにまぶたを閉じた。
「……ああ。君と過ごしたこの数日間は、俺の人生で最も穏やかで、大切な時間だったよ」
「そんな風に言っていただけると、鼻が高いです。私にとっても、ユーリさんと過ごした時間は宝物ですから」
明日の朝には、この部屋にユーリはいない。
彼が座っていたソファも、一緒に並んだキッチンも、全部私一人だけの空間に戻ってしまうのだ。
残された時間を数えながら、私は胸の奥の痛みを隠し続けた。
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