11話 最後の夜と、こぼれ落ちる涙
片付けを済ませたあとも、二人の間には穏やかだったけれど、心残りがあるかのような言葉詰まる時間がときおり流れる。
今が、この家で二人が共に過ごす最後の夜だ。
「それじゃあ、ユーリさん。明日も早いですし、そろそろ休みましょうか」
「……そうだな」
私はいつも通りの声を振り絞り、柔らかく微笑んで見せた。
ユーリもまた、いつものように優しい瞳で私を見つめ返してくれる。
「おやすみなさい、ユーリさん」
「ああ、おやすみ。アイリス」
いつもと変わらない、当たり前の挨拶。
それだけを交わすと、私は背を向け、逃げ込むように自分の寝室へ足を踏み入れた。
扉を閉めた瞬間。
「……っ、ふ……」
自分でも抑えきれないほどの感情が、一気に胸の奥からあふれ出してきた。
両手で口元を覆い、ベッドの上に崩れ落ちる。
全力で我慢していた涙が、ぽろぽろと頬を伝って止まらなくなってしまった。
(……やっぱり、寂しい……っ。ユーリさんといられなくなるなんて……!)
彼に心配をかけまいと、夜まで強がってみせることができた。
けれど、一人きりになった暗い部屋の中では、笑顔の仮面など剥がれ落ちてしまう。
声を出して泣いてしまえば、リビングにいるユーリに気づかれてしまう。
私は呼吸を押し殺しながら、懸命に涙をぬぐい続けた。
コンコン――。
ノックの音が扉を叩いた。
「……アイリス? 入ってもいいか?」
扉の向こうから聞こえたのは、聞き慣れたユーリの透き通る声だった。
「っ!?」
動転した私は、声が漏れないように喉を詰まらせながら返事をした。
「は、はいっ! ど、どうかしました……っ?」
準備をしていなかったせいで、ひどく上ずった声が飛び出してしまう。
ガチャリと、勢いよく扉が開かれた。
「え……」
月明かりが差し込む暗がりの中、立ち尽くすユーリの姿。
涙でくしゃくしゃになった私の泣き顔を、彼に見られてしまった。
「あ、違、これは……」
「アイリス……!」
駆け寄ってきたユーリは、私を腕の中へと強く引き寄せた。
「ユーリさん……っ」
目の前がユーリの厚い胸元で埋まる。
こらえきれなくなったように力を込める彼の腕から、あふれんばかりの痛切さが伝わってくるようだった。
「……ごめんなさい、ユーリさん……っ。私、ちゃんとお見送りしようって決めていたのに……っ」
「いいんだ。謝らないでくれ……」
私の髪に顔を寄せながら、ユーリが耳元に感情をこぼれ落としていく。
「泣かせたくなかった。君に辛い思いをさせないために離れると決めたのに……俺が君を一番傷つけている」
「そんなことないです……っ! あなたと一緒にいられた時間は、私にとって本当に幸せだったんです……! だから、離れるのが寂しくて……っ」
私の本音が、涙とともにこぼれ落ちていく。
ユーリは私の顔を両手で包み込むと、瞳を揺らがせながら見つめてきた。
「アイリス、俺の言葉を聞いてくれ」
彼の指先が、私の頬に伝う涙を優しくぬぐい去る。
「俺は必ず、君を迎えに来る」
「え……?」
「今の俺には、解決しなければならない問題がある。だが必ず、この場所へ戻ってくる。だから……待っていてくれないか?」
それは、ただの慰めではない。
真摯で強い意志が込められた、彼が私に向ける誓いだった。
「ユーリさん……っ」
視界が再び、瞳の奥から満ちあふれた涙でにじむ。
けれど今度は、悲しさではなく、胸を満たす温かい熱のせいだった。
「はい……! 待っています……! ずっと、待っていますから……っ!」
私の返事を聞いて、ユーリは胸を撫で落ろしたように微笑んだ。
そして、照れたようにわずかに頬を染めながら、私の耳元で小さくささやく。
「……アイリス。わがままを言ってもいいだろうか」
「はい……? 何ですか……?」
「今日だけ……今夜だけでいい。一緒に寝てくれないか?」
「っ……!?」
思いもよらない提案に、私の顔が瞬時に熱くなった。
顔を真っ赤に染めた私を見て、ユーリは少し困ったように笑いながら、それでも熱い眼差しを向けてくる。
「その、変な意図はない。ただ……明日離れてしまう前に、もう少しだけ君の温もりを感じていたいんだ」
断る理由なんて、どこにもなかった。
私もまた、少しでも長く彼の近くにいたかったのだから。
「……はい。一緒にお休みしましょう、ユーリさん」
ユーリは愛おしさに満ちた瞳で私を見つめると、そっと私の頬に、優しい口づけを落とす。
「!? ユ、ユーリさん……!?」
「……それと、アイリス。これからは……俺を『ユーリさん』ではなく『ユーリ』と呼んでくれないか? 敬語もなしで、ただの男として……俺の名前を呼んでほしいんだ」
「え、でも……」
「頼む。君の口から、飾らない俺の名前を聞きたいんだ」
蒼天を思わせる空色の瞳に見つめると、遠慮するという選択肢はなくなってしまう。
彼の胸にそっと手を添え、意を決して唇を開いた。
「……うん。わかったわ……ユーリ」
「ありがとう……。アイリス」
その響きがあまりにも心地よくて、私は彼の胸の中に身を委ねる。
優しい熱に包まれながら、最後の夜を迎えるのだった。





