6話 月夜の打ち明け話と、縮まる距離
騒がしかった昼間の出来事が嘘のように、夜の庭はどこまでも穏やかな静けさに包まれていた。
空に浮かぶ月は白い光を放ち、庭の芝生や植栽の輪郭を浮かび上がらせている。
昼間、父親が置いていった高級な茶葉で淹れた紅茶と、焼き菓子を小皿に添えて、私は庭に面したテラスへと運んだ。
包帯の巻き直しを終えたユーリが、夜風に当たろうと外の長椅子に腰掛けていたからだ。
「ユーリさん、温かいお茶が入りましたよ。良かったら一緒にどうですか?」
「……ああ、ありがとう」
ユーリはうなずきながら、隣のスペースを空けてくれた。
湯気の立つカップを渡すと、ふんわりと華やかな香りが夜の空気の中に広がっていく。
一口飲んだユーリは、その風味に驚いたように眉を上げた。
「……実にいい香りだ。上質な茶葉を使っているのだな。君の父親は、本当に君を心から大切にしているのだろう」
「あはは……まあ、過保護すぎて頭を抱えることも多いですけれどね。でも、愛情は痛いほど伝わってきます」
カップを両手で包み込みながら、私は夜空を見上げた。
月明かりが雲の隙間から差し込み、世界を淡い紺色に染めている。
「父親が突撃してきたときは生きた心地がしませんでしたけれど……こうして二人でお茶を飲んでいると、なんだか心地良い気分になります」
「そうだな。……俺にとっても、こんな風に穏やかな夜を過ごすのはいつ以来か分からない」
ユーリは遠くの暗がりを見つめたまま、ぽつりと小さな声で言葉を紡いだ。
「俺の周りは、いつも騒がしく……いや、息が詰まると言った方が正しいかもしれない。周囲の誰もが俺に完璧な成果を期待し、与えられた役割をこなすことだけを求めてくる」
カップを持つ彼の綺麗な指先に、かすかに力が入る。
私はユーリのどこか影を感じさせる横顔を、ただ見つめ続けることしかできなかった。
「背負った立場を捨てたとき、俺自身には一体何が残るのだろうと、時折考えてしまうことがあった。俺という人間そのものを見つめ、必要としてくれる者など、この世のどこにもいないのではないかと……」
彼の言葉には、隠しきれない孤独の響きがあった。
詳しい身分は明かさないけれど、彼がどれほど重いものを一人で背負って生きてきたかが、その横顔から伝わってくる。
「……すまない。妙な話をしてしまったな。忘れてくれ」
ハッとしたようにユーリは口を閉じ、どこか申し訳なさそうに微笑んで見せた。
私はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、謝らないでください。……実は、私も少し似たようなところがあったんです」
「君が?」
ユーリが驚いたようにこちらを見た。
私は夜風になびく髪を耳にかけながら、遠くを見つめて語り始めた。
「私も……以前は決められた運命や、勝手に押しつけられる役割に縛られていました。このまま流されるままに生きていったら、いつか取り返しのつかない悲劇を迎えてしまう……そう分かったとき、胸が押し潰されそうになるくらい怖かった」
乙女ゲームの悪役令嬢として破滅する未来。
私は、前世の記憶を取り戻したあの日の葛藤を吐露する。
「だから私、逃げ出したんです。誰かが用意したレールから思い切って飛び降りて、自分の足で立つ道を選びました。もちろん、一人で生きていくのは大変なこともあります。でも、自分で選んだこの小さな自由が、私はとても好きなんです」
自分の手でつかみ取ったこの家での暮らし。
誰かの意思ではなく、自分の意志で歩む人生。
語るうちに胸の奥が熱くなり、私はユーリの空色の瞳を見つめ返した。
「だからね、ユーリさん。私は、今のユーリさんしか知りません」
「え……?」
「肩書きなんて私には分かりませんし、興味もありません。私が出会ったのは、庭で倒れていて、私の作ったスープを美味しそうに食べてくれて、がんばって押し入れに隠れてくれた、礼儀正しいユーリさんです。私は、そんなあなただから助けたいと思うんですよ」
嘘偽りのない私の想いが、夜の静寂の中に溶け込んでいく。
ユーリは瞳を震わせ、固まったように言葉を失っていた。
「……そうか」
ユーリの口から、夜風になびくような声が漏れた。
彼は困ったように、片手で額の金髪をかきあげる。
「……君は、本当に不思議な女性だ」
「ふふ、何ですかそれ。私、何か変なことを言いましたか?」
「いや……本当に、君と出会えて良かったと、心から思っているんだ」
ユーリの瞳には、熱を帯びたような優しい色が宿っていた。
その眼差しがあまりにも愛おしげで、ドキリと胸を高鳴らせてしまう。
彼にずっと見つめられたせいか、急に恥ずかしくなって視線を落とした。
「あ、あの……風が少し冷たくなってきましたし、そろそろ部屋の中に入りましょうか!」
「……そうだな」
私は逃げるように慌てて立ち上がった。
背後でユーリが、どこか噛みしめるように深く息をつく気配が伝わってくる。
胸の鼓動の意味を私はまだ知らなかったけれど、ふたりの間の空気が変化したことだけは、はっきりと感じ取っていた。





