4話 初めて異性と過ごす夜
昼間の騒動や食事の時間が過ぎ、窓の外はすっかり夜の気配に包まれていた。
小さなランプの灯りがリビングを照らし出し、心地よい静けさが家の中に満ちていく。
手当てをしたユーリの調子は良さそうだが、依然として体力を消耗していることに変わりはない。
そろそろ休む時間だと判断した私は、奥の寝室を指差して声をかけた。
「ユーリさん、そろそろ休みましょう。奥にベッドがありますから、今夜はあちらで横になってくださいね」
だが私の提案に、ソファに座っていたユーリは首を横に振った。
「いや、それは困る。怪我人とはいえ、家主である君を追い出してベッドを奪うわけにはいかないだろう。俺はここで充分だ」
「そんなこと言わないでください。ユーリさんは怪我人ですよ? 固いソファなんかで寝たら体も痛みますし、傷口に響いてしまいます。私はソファで寝ますから」
「だめだ。見知らぬ男を転がり込ませただけでも不躾なのに、女性の君をソファなどで寝かせられない。俺がここで寝る」
ユーリの譲らない姿勢に、私は困り果ててしまった。
こちらの心配をよそに、彼はどこまでも礼儀正しく、自分を後回しにしようとする。
傷を負っている彼に無理をさせたくない一心で、私の頭の中はぐるぐ々と知恵を巡らせた。
(うーん、ベッドはひとつしかないし……でも、彼をソファで寝かせるのは忍びないし……)
頭の中で選択肢をこねくり回しているうちに、ふと思いついたことを口にしてしまう。
「あ、それじゃあ一緒に寝るのはどうですか?」
夜のひっそりとした静寂が、リビングのこじんまりとした空間を支配した。
パチパチと焚き火が爆ぜる音だけが、部屋の中に虚ろに響く。
「…………は?」
ユーリが、信じられないものを見るような目で固まった。
(……えっ? 私、いま何て言った……!?)
彼のぽかんとした顔を見た瞬間。
自分の口から飛び出た言葉の意味が、遅れて脳内に押し寄せてきた。
「ち、ちちち、違います! 変な意味ではありません!」
両手をぶんぶんと振って打ち消そうとするが、一度放たれた言葉を取り戻すことなどできない。
顔を熱くしながらも、私は必死に取り繕おうと視線を泳がせる。
「違うんです! ベッドがそれなりにゆったりしているから、真ん中にクッションでも挟めば二人でも寝られるかもって思って! でもよく考えたら全然違いますね! 無理です! 忘れてください! 予備の毛布を持ってきます!」
まくし立てるように叫ぶと、私はユーリの返事も待たずに寝室へと駆け込んだ。
バタンと扉を閉め、背中を押し当ててへたり込む。
「うわあああ、何を言っているの私!」
暗がりの中で胸を押さえるが、心臓がバクバクと音を立てて鳴りやまない。
前世の記憶があるとはいえ、恋愛経験が豊富なわけではない。
ましてや今世では、伯爵令嬢として箱入り娘同然で育てられてきたのだ。
(よく考えたら、見知らぬ男性と同じ屋根の下で夜を過ごすこと自体、人生で初めてじゃないの……!?)
昼間は手当てや料理に夢中で意識していなかったが、ここは私一人だけの隠れ家だ。
自分より背が高く、どこか浮世離れした綺麗な顔立ちの男性と、二人きりで夜を迎えている。
その事実に今更ながら気づき、私のパニックは最高潮に達した。
(落ち着け自分! 一緒に寝るなんて失言は忘れてもらうとして、毛布を渡して平和に寝るのよ!)
クローゼットの奥から清潔な予備の毛布を引っ張り出し、胸に抱え込んだ。
何度も深呼吸を繰り返して顔の火照りを鎮めると、意を決して扉を開ける。
リビングへ戻ると、ユーリは先ほどと同じ姿勢のままソファに座っていた。
「……あの、ユーリさん。予備の毛布です」
視線を直視できないまま、抱えていた毛布を差し出す。
ユーリはゆっくりと立ち上がり、それを受け取った。
「……ありがとう」
「さ、さっきの提案は忘れてくださいね。私、動転して変なことを言ってしまって……」
謝る私を、ユーリは何も言わずにじっと見つめていた。
やがて、彼は深く息を吐き出すと、温かな眼差しを向けてきた。
「気にしていない。君が俺の体を気遣ってくれたから出た言葉だということは分かっている。……だが、軽々しく男にそんなことを言ってはいけないよ」
「うっ……はい、気をつけます……」
「それに……安心していい」
ユーリは持っていた毛布をソファに置くと、少しだけ腰を落とし、私の目線に合わせて語りかけてきた。
「君が不安になるような真似は、絶対にしない。命を助けてくれた恩を、仇で返すこともしない」
彼の声には、偽りのない誠実さが満ちていた。
整った顔立ちに浮かぶ真剣な眼差しと、毅然とした立ち振る舞い。
正体は分からないけれど、この人は決して私を害するような人間ではないと、心から信じられる佇まいがあった。
「……はい。ユーリさんを信じますね」
素直にうなずくと、ユーリは安堵したように口元をゆるめた。
その柔らかい微笑みに、また少しだけ胸がどきりとしたけれど、今度は嫌な緊張感ではなかった。
「それでは、私は奥の部屋で寝ますね。何かあったらすぐに呼んでください」
「ああ。君もゆっくり休んでくれ。……おやすみ、アイリス」
「おやすみなさい、ユーリさん」
小さく手を振り、私は自分の寝室へと戻った。
ランプの灯りを消すと、夜風の音が心地よく聞こえてくる。
見知らぬ、正体の分からない居候との初めての夜。
胸に残る温かな余韻を感じながら、私は静かにまぶたを閉じたのだった。





