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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第2章2節

寺院の壁画の鮮やかな色彩と老僧侶の穏やかな声が、まだ胸の中で温かく残っている。「西の果て……大秦たいしん……」あの人は、初めてその名を知っていた。長安でも隊商の人たちでも、誰も聞いたことがないと言っていたのに……。へへ、なんだか少しだけ心強くなった気がする。


寺院を後にして、私は再び市場の方へ足を向けた。朝食をしっかり食べたおかげで体も軽い。巾着袋を肩にかけ直しながら、胡人こじんの商人たちの活気ある声に耳を傾ける。香辛料の強い匂い、馬のいななき、絹や宝石が並ぶ露店。敦煌とんこうは本当にオアシスの街だ。長安の市場よりずっと西の匂いが濃くて、なんだか世界が広がっていくような感覚になる。


市場の真ん中を歩いていると、突然子供の叫び声が響いた。


「わあっ! 泥棒! 荷物を返してー!」


十歳くらいの少年が、必死に手を振りながら走っている。その先では胡服を着た男が、少年の小さな荷物をひったくって逃げようとしていた。果物や布の包みが地面に落ちそうになる。


「困ってる人を放っておけないよ!」私のおせっかいな性格が顔を出した。中学陸上部で中距離を走っていた脚が、自然に動き出す。砂地の市場を全力で駆け抜ける。砂埃が舞い上がり、足裏が熱くなる。男の背中がどんどん近づいてくる。息が上がるけど、止まらない。「待って! それ、返してよ!」


男が振り返って私を睨んだ。目が鋭くて、内心ドキッとする。でも、スピードで勝負。少年の荷物を狙って手を伸ばし、男の腕をしっかり掴んだ。「離して!」男が暴れるけど、現代ではやや小柄な私でも、この時代では男と大差ないし、成長期の栄養とトレーニングの差か、筋力も見劣りしない。体を低く沈めて足を引っかけ、男を砂地に引き倒した。「うわあ!」男は派手に転がり、荷物を放り出して慌てて立ち上がり、逃げていった。


私は息を切らしながら荷物を拾い上げ、少年の元へ駆け寄った。少年は目を丸くして私を見つめていた。「お姉さん……すっごく速かった……風みたいだったよ。ありがとう! 僕、小明シャオミンっていうんだ。市場の旅籠『緑洲楼りょくしゅうろう』の息子なんだ。父さんに渡す大事な荷物だったのに……あぶなかった」涙目になりながらも、笑顔を見せる。


私は少年の頭を優しく撫でた。「へへ、大丈夫だよ。私、柚っていうの。一人で旅してるんだけど、困ってるの見てつい走っちゃった。鍛えた脚、役に立った!」


小明は荷物をぎゅっと抱きしめ、私の手を引いて旅籠の方へ連れて行った。店先で待っていた親父さんが事情を聞いて大感激した。「嬢ちゃん、本当にありがとう! うちの小僧が世話になったな。せめてもの礼に、うちで昼ご飯をごちそうさせてくれ。ゆっくり休んでいけよ」


旅籠の奥の座敷に通され、お礼ということで随分奮発もしてくれたんだろう、熱々の湯餅と新鮮な果物、香ばしい焼き肉が並べられた。久々に走ってお腹を空かせていたので、遠慮なく頰張った。「おいしい……! ありがとうございます」


食べながら、親父さんと小明がいろいろ聞いてくる。私は自然に話した。「私、西を目指す旅の途中なんです。ローマ……大秦まで行こうと思ってて、この街で少し休んで準備をしようと思ってました。途中で交易もしてるんですけど……玉の欠片や香料の小袋を売ってみても、商人との駆け引きが難しくて、なかなか思うように儲からないんですよね。でも、なんとか路銀を稼ぎながら進んでるんです」


親父さんは腕を組んで頷いた。「ほう、大秦って街は知らないが、ずいぶん遠いんだろう?……女一人で大したもんだ。金に困ってるなら、うちで働かないか? 住み込みでいいぞ。飯と寝床は出すし、少しばかりの日銭もやる。女房がいまオメデタでな。女手が欲しかったんだ。料理や掃除を手伝ってくれりゃ助かるし、飯時の給仕をやってくれりゃ助かる。空いた時間は旅の準備をしてもらってもかまわん。どうだ?」


私はへへっと笑って、頰を少し赤らめた。「え、本当ですか? やった! なんでもやります!」


こうして住み込みで働くことが決まった。親父さんは「じゃあ、昨日の宿を引き払って今すぐ来い」と言い、小明が一緒に手伝ってくれることになった。


私は市場の近くにあった昨日の安宿へ急いだ。粗末な部屋に戻り、荷物をまとめた。麻の上着を整え、宿の主人に代金を清算して、「お世話になりました!」と挨拶して出る。宿の土壁が背後に遠ざかるのを振り返って、私は小さく息を吐いた。


小明と一緒に旅籠「緑洲楼」へ戻る道中、砂地の道が少しだけ明るく感じられた。巾着袋の重さを確かめながら、私は西の空をじっと見つめた。……これで少し、旅が続けられそうだ。

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