↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/47

第2章3節

旅籠に着くと、親父さんがにこにこしながら待っていた。「よう、来たな! 部屋は裏の小さなやつだけど、布団は干してあるぞ。今日のところは、まずは旅籠の仕事を見ながらゆっくりしてくれ。手伝いは明日からでいい」


割り当てられた部屋は、土壁の小さな一室。窓からオアシスの緑が見えて、意外と明るい。巾着袋を隅に置き、底に隠したレーザーガンと充電器をそっと確かめる。「絶対に人に見られないように……」と心の中で繰り返し、手記を大事に布団の下にしまった。


その日はお言葉に甘えて、ゆっくり休ませてもらった。座敷の隅に座って、客たちが湯餅をすすったり、焼き肉を頰張ったりする様子をぼんやり眺める。厨房では女将さんが大きなお腹を抱えながら小明と麺を打っている。市場から運ばれてきた新鮮な果物や香辛料の匂いが、土壁の隙間から漂ってくる。敦煌とんこうの旅籠って、こんな風にみんなが集まって、砂漠の疲れを癒す場所なんだ……。なんだか少し落ち着く。


夜、客が引き上げた頃、女将さんが声をかけてくれた。「柚ちゃん、余り物だけど、一緒に果物でもどう?」


厨房の隅で並んで座り、瑞々しい瓜と葡萄を分け合う。女将さんは大きなお腹を優しく撫でながら、穏やかに話してくれた。「この街は砂漠の真ん中だけど、水があるからみんな生きてるのよ。毎日市場で新鮮な材料が届くの。あなたも、敦煌の暮らしに少しずつ慣れてきた?」


私はへへっと笑って、果物を一口。「私も、旅の途中でこんな温かいところに出会えてよかったです。女将さん、出産近いんですよね? 何か手伝えることあったら、なんでも言ってくださいね」


女将さんは目を細めて頷いた。


そこへ小明シャオミンが駆け込んできた。「お姉さん! 疲れてない? 一緒に外に出てみようよ! 敦煌の夜は星がきれいなんだ」


私たちは井戸端に並んで座り、星空を見上げた。日本では見たことのないような満天の星空。日本では見えないような星まで見えて、見慣れた星座を探すのが大変なほどだ。


小明が星を見上げながら話してくれる。「父さんは昔、隊商で楼蘭ろうらんまで行ったことあるって。でもお母さんと結婚してからは旅籠を守ってる。市場では毎朝、胡人の商人たちが香辛料や宝石を並べて、ものすごい声で商売してるよ。僕も買い物を手伝ってるけど、値切りが大変なんだ。お姉さんも、交易で苦労してるって言ってたよね」


私は小さく笑った。「うん、玉の欠片とか香料を売ってみたけど、胡人の商人さんたちに負けちゃうんだよね。でも、敦煌の市場って活気があって楽しいよ。小明は毎日どんな風に過ごしてるの?」


小明は話を聞いてもらうのが嬉しいのか、目を輝かせながら続ける。「朝は父さんと一緒に市場で荷物を運んで、昼は旅籠の手伝い。夕方は井戸で水を汲んで、夜は星を見ながらお母さんと話すの。このオアシスに水がなかったら、みんな砂漠に飲み込まれちゃうって父さんが言ってた。お姉さんみたいに西へ行く旅人も、ここの水で命をつないでるんだよ」


私は胸が温かくなるのを感じた。「ありがとう……小明。敦煌の暮らし、すごくいいね。みんなで支え合ってるんだ」


夜、部屋に戻って一人になると、葵さんの手記を取り出してページをめくった。葵さんの震える筆致が、薄暗い灯りの下で浮かび上がる。海での難破、詐欺、奴隷商人に何度も売られ、逃亡を繰り返した三十年……。不幸の連続だった葵さんの旅に比べたら、私の今はなんて恵まれてるんだろう。温かい旅籠、優しい女将さん、元気な小明、ちゃんと食べられて、寝床があって、笑顔でいられる日々……。こんなに良いのだろうか。胸の奥が、急にざわついた。不安が、静かに這い上がってくる。私……こんなに恵まれて、いいのかな……それとも、葵さんにも平和な瞬間はあったはずで、私にもいずれ不幸な日々が待っているのだろうか。


すぐに首を振った。「だめだよ、柚。考えても仕方ないことを考えて自分を追い詰めちゃ。ここでちゃんと働いて、楼蘭への準備をしよう」


翌朝から、本格的に手伝いが始まった。旅籠では朝食は出していないので、朝は掃除から。客が引き払った部屋の埃を箒で払い、布団を叩いて干す。古代の道具は現代の掃除機みたいに便利じゃないけど、繰り返しやっているうちにコツがつかめてくる。


昼過ぎになると、厨房の手伝い。女将さんが「柚ちゃん、今日は湯餅の麺を打つのを手伝ってくれる?」と笑顔で迎えてくれた。私は頷いて、大きな木の鉢に小麦粉を入れる。水を少しずつ加えてこねる作業は、最初はべたべたして上手くいかない。「うーん、失敗しちゃったかな……」。でも女将さんが「焦らなくていいよ、力加減を覚えればすぐ上手くなるから」と教えてくれる。繰り返しこねているうちに、だんだん生地がまとまってくる。麺を伸ばして切る作業も、意外とリズムが出てきた。「おお、できた! へへ、何事も経験だね」


夕方になると、続々と宿泊客が訪れる。旅籠は商人や旅人でいっぱいになっていく。食事時の忙しさが本番だった。座敷に十人以上が座り、湯餅、焼き肉、果物、乳飲料や酒を次々と出てくる。私は給仕を担当。熱々の器を両手で運び、客の前に置く。「はい、お待たせ! 熱いので気をつけてね」。汗が額を伝う。客が次から次へと追加注文してくるから、厨房と座敷を何往復もする。目の回るような忙しさ。「わあ、待って待って! もう一皿追加だよー!」って小明と二人で走り回る。足がもつれそうになるけど、なんとか持ちこたえる。「はあはあ……この忙しさ、活気が敦煌って感じだね」などと知ったふうなことを考える。


夜、客が引き上げて一段落した頃、ようやく一息つけた。厨房の隅で女将さんと並んで座り、残り物の果物を分け合う。女将さんは大きなお腹を優しく撫でながら、「柚ちゃん、今日はよく頑張ったわね。……あなたみたいな元気な子が来てくれて助かるわ」


私はへへっと笑って、果物を一口。「私も、旅の途中でこんな温かいところに出会えてよかったです」


こうして敦煌での日々が、積み重なっていく。路銀も少しずつ貯まり、西への情報も集まる。でも、心の奥底では、漠然とした不安が静かに広がっていた。


それでも、私は前を向く。葵さんの手記を、夜毎にそっと撫でる。「葵さん……私、ちゃんとここで生きてるよ。次は楼蘭だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。