第2章4節
旅籠での日々に少しずつ慣れてきて、私は積極的に客たちに話しかけるようになった。仕事の合間を縫って、旅籠の主人である親父さんや行商人、旅人たちに楼蘭への道のりを尋ねる。
ある午後、厨房の片付けを終えたタイミングで、親父さんが大きな水桶を抱えて入ってきた。私は手伝いながら自然に切り出した。
「親父さん、楼蘭ってどのくらいかかるんですか? 敦煌から西へ、最短の道で」
親父さんは桶を置いて額の汗を拭き、ゆっくり頷いた。「楼蘭か……最短で十五日ほどだな。タクラマカン砂漠の縁を行く道だ。だが今はどんどん砂漠が広がってるって話だ。水と食料をしっかり用意しないと命取りになるぞ。途中に小さな砦が二つほどあって、井戸や湧水池があるが、道を少しでも外れたら終わりだ。『死の場所』『無限の空間』って呼ばれるだけある」。
「十五日……結構かかるんですね。水はどれくらい必要ですか?」
「大規模な隊商でもなければ、水は五日分くらいしか持てないから、水は途中の砦で必ず補給するんだ。十八日分程度の食料だけは絶対に持て。砦では食料は分けてもらえないからな。干し肉、干しパン、干し果物……腐りにくいものを多めに。荷物は八十斤(約二十キログラム)以内に抑えろ。夜間から朝移動して、昼は体力を温存するんだ。昼の休憩は大事だぞ。砂を掘れる場所なら、砂を掘って体を埋めて熱を逃がせ。掘れない場所なら岩陰を必ず確保しろ。暑くなる前にそういう場所を見つけて休むんだ。それが生き延びるコツだ」。
その言葉を聞いていると、砂漠の厳しさが少しずつ実感として迫ってくる。
「だが、俺が楼蘭に行ったのは随分と昔だ。行商人や旅人から新しい情報も聞いておけ」
夕方、市場から戻ってきた行商人のおじさんが座敷で休んでいた。私は果物の盆を運びながら、そっと隣に座った。
「おじさん、西から来たんですよね? 最近の様子はどうですか? 道中、危ないところとか……」
おじさんは胡椒の匂いがする手を拭きながら、苦笑した。「楼蘭はオアシスとして賑わってるが、砂漠越えは毎回命がけだ。最近は賊の話も聞くぞ。小さな隊商を狙う連中が、砂丘の陰に潜んでるらしい。刀を抜いてくることもあるようだ……まあ、気をつけな」
賊の話が出てきた瞬間、私は少し背筋が冷たくなった。でも、現代の日本で育った私は、ニュースで聞くような遠い出来事みたいに感じてしまう。「危ないんですね……気をつけます」。危機感が、今ひとつ胸に刺さらない自分が少しもどかしい。
夜になると、西へ向かう老商人が一人、酒を飲みながら親父さんと話をしていた。私は給仕のついでに話を聞かせてもらう。
「楼蘭に戻る予定だが、水さえ補給できればなんとかなる。ただし、今は砦の一つは干上がってるかもしれないって話だ。もしそうだったら、無理せず引き返したほうが良い。命あっての旅だ」
老商人は私を見て、優しく言った。「嬢ちゃんも西へ行くのか? 若いのに勇気があるな。だが、油断するなよ。砂漠は容赦がない」
老商人はそう言ってから、盃を傾けながら付け加えた。「ただ、嬢ちゃんは俺とは違う。俺は昔から一人で商いをしてきた。隊商の足並みに合わせるより、自分の判断だけで動くほうが性に合ってるんだ。……だが、それとこれとは話が別だ。嬢ちゃんみたいに右も左もわからんなら、隊商と一緒に行くのが一番堅い。護衛もつくし、水の融通も利く」
親父さんも横から頷いた。「そうだな。柚、隊商が組めるなら、そっちのほうが確実だ」
「隊商……今度はいつ出るんですか?」
老商人は少し考え込むように黙った。「それがな……今年は砦の井戸が怪しいって話、さっきしただろう。郡の衙門が水量を調べてて、『大所帯の隊商には当面、補給を保証できない』ってお触れを出しちまったんだ。何人もまとまって来られても、途中の砦が水を回せる保証がないってな」
「じゃあ……次の隊商は……」
「わからん」老商人は首を振った。「井戸の水位が戻るまでだろうが、来月かもしれんし、今年はもう出ないかもしれん。役所の調べが終わるまでは、誰も動けんよ。……まあ、俺には関係のない話だがな」そう言って、少し自嘲するように笑った。
胸の奥がすっと冷たくなった。例えばひと月待てばいい、というならまだ我慢できる。でも「わからない」という言葉には、底がない。楼蘭までの道のりも、葵さんの手記に残された時間の重みも、私を待ってはくれない気がした。
「……それなら、一人で行きます。大所帯じゃないから、水の心配も少しは軽いはずですし」
老商人は驚いた顔をしたが、すぐに苦笑した。「役所のお触れは、少人数にまでは及んでないからな……理屈は合ってる。だが、それはそれで危ないぞ」
「わかってます。でも、待ち続けて機会を逃すより……自分の足で確かめてきます」
私は礼を言って、必要な物資を頭の中で整理した。食料十八日分、できれば二十日分。水は砦で補給……。荷物は八十斤以内に抑える。昼の休憩は砂を掘るか岩陰を確保。夜間移動主体で、昼は休む。夜は方向を間違えないよう、星を目印に……。
私は繰り返し確認した。現実の数字が、ようやく重みを持って胸に落ちてくる。でも、まだ「ちゃんと準備すればいけるよね」という明るい気持ちが勝っていた。平和な日本で育った私は、砂漠の「死の場所」という言葉を、実感できていない自分に気づく。
夜、部屋に戻って一人になると、葵さんの記憶がよぎる。彼女もきっと、こんな風に情報を集めながら進んできたんだろう……。
敦煌での日々は、まだ続く。旅籠の仕事で路銀を貯め、必要な物資を少しずつ揃えながら、私は楼蘭への本格的な準備を進めていた。西の空が、静かに私を呼んでいる気がした。




