第2章1節 敦煌 245年(正始6年)7月 旅立ちから1ヶ月半
オアシス都市、敦煌に到着した翌朝、私は宿の粗末な布団の上でゆっくり目を覚ました。窓から差し込む朝の光が、土壁の部屋を柔らかく照らしている。長安から四十日以上、隊商の荷車を押し、砂混じりの道を歩き続けた体はまだ少し重いけど、胸の奥は不思議と軽かった。
「ふわぁ……おはよー」小さく伸びをしながら起き上がり、麻の上着を整える。
巾着袋を肩にかけ、底に隠したレーザーガンと充電器をそっと確かめる。「絶対に人に見られないように……もし見られたら、何が起きるかわからないよね」と思うと心配だけど、今のところ無事。手記を撫でて、部屋を出た。
宿の主人に勧められた朝食の場所は、市場のすぐ近くの露店だった。昨夜は疲れていてあまりたくさん食べられなかったから、今日はちゃんと腹ごしらえだ。木陰の粗末な腰掛けに座り、店のおばさんに声をかける。
「あの、朝ごはんお願いします! おすすめのやつでいいです」
出てきたのは、粟の粥じゃなく、柔らかい小麦粉の麺を湯で伸ばしたような「湯餅」と、緑豊かなオアシスで採れたばかりの新鮮な果物——甘い瓜、瑞々しい葡萄、干し杏の煮物。そして、澄んだ井戸水で薄めた酸っぱい乳飲料。長安の朝食とは全然違う。
長安では、薄味のお粥とか「現代のお料理みたいにキレがないな」って思った。でもここ敦煌は味付けが違う。湯餅はつるつる滑らかで、ほんのり甘い出汁が染みていて、噛むたびに小麦の自然な甘みが広がる。瓜はしゃきしゃき瑞々しく、葡萄は皮ごと弾ける甘酸っぱさ。乳飲料は少し酸味が効いてて、喉にすっと落ちる。「うーん……長安の朝ごはんは『命を繋ぐための素朴な味』って感じだったけど、こっちは『生きてる実感がする新鮮さ』だね。一歩街を出れば砂漠だからこそ、こんなに味にこだわるのかな……」
私は麺をすすりながら、市場の喧騒を眺めた。胡人の商人たちが大声で商談してる声、馬のいななき、香辛料の匂い。長安の朝より少し喧騒が強く、柚の感覚では異国の色が濃い。家族の顔や友人たちの笑顔が、ふっと更に遠くなった気がする。でも、今はそれを振り払うように、果物を頰張った。「おいしい……! これで今日もがんばれそう」。
朝食を終えて、私はすぐに街外れを目指した。宿の人に聞いた古い仏教寺院だ。西方へ向かう旅人が昔から祈りを捧げてきた場所——葵さんの手記と重なる気がして、胸が熱くなる。
土壁の門をくぐり、ひんやりとした境内に入ると、まず目に入ったのは本堂の壁一面に広がる色鮮やかな仏教壁画だった。
「わあ……すごい……」
天井近くまで埋め尽くす絵。金色に輝く仏様が座し、周りを菩薩や飛天が舞っている。青、赤、緑の顔料が、年月を経ているのにまだ鮮やかで、まるで昨日描かれたみたい。隣の壁には、西方から来たキャラバンの様子が描かれていた。駱駝の列、荷物を積んだ商人たち、砂漠を越える旅人たち。風に舞う砂、遠くに見えるオアシス。すべてが生き生きと語りかけてくる。
さらに奥の本堂に入ると、そこは特に圧巻だった。中央に巨大な仏像が鎮座し、周囲の壁には極楽浄土の様子が描かれている。蓮の花が咲き乱れ、天女が花を撒き、楽器を奏でる。色彩の豊かさに息を飲む。光が天窓から差し込み、壁画を幻想的に照らす瞬間、胸が熱くなった。「きれい……。こんなに美しいものが、砂漠の真ん中にあったなんて」
本堂の入り口近くで、托鉢姿の年老いた僧侶が静かに座っていた。穏やかな顔で私に気づき、優しく微笑みかける。私は好奇心を抑えきれず、近づいて声をかけた。
「あの、すみません。この壁画、すごいですね。西方へ行く旅人がたくさん描かれてるんですけど……昔から、みんなここで祈ってたんですか?」
老僧侶はゆっくりと頷いて、「ええ、お嬢さん。この寺院は、西方へ向かう旅人たちが祈りを捧げる大切な場所です。古くから多くの旅人たちが、この道を歩き、砂漠を越え、山を越え、西の果てを目指してきたのです。ここで心を整え、水を乞い、仏の加護を求めてきたのです……。あなたも、西へ向かう旅人ですか? その目は、遠いところを見ているように思えます」
私はへへっと笑って、頰を少し赤らめた。「えへ、はい。一人でローマ……大秦まで行こうと思ってます。葵さん……いえ、昔の旅人の手記を読んで、絶対に辿り着きたいんです。不思議と、どこでも言葉が通じるし、きっと天の恵みなんだと思います」
僧侶の優しげな瞳に、ふと今まで口にしたこともなかったようなことまで話してしまう。
老僧侶は一瞬、目を丸くして息を飲み、少し驚いた様子で私を見つめて、「……大秦、と言いましたか? ほう、それは西方の遥か果ての国の都のことですね。もう随分と昔に旅人から聞いた話ですが、こんな若いお嬢さんがその名を口にするとは……珍しいことです」
老僧侶は優しく目を細めて、「言葉が通じる……それは仏の慈悲です。でも道はとても過酷ですよ。タクラマカン、楼蘭、于闐……死の砂漠が待っています。心を強く持ってください。壁画のように、飛天のごとく軽やかに、しかし仏の教えのように堅くありなさい」
その言葉が、胸の奥に染み込んだ。葵さんの三十年の記憶が、ふっと蘇る。孤独と絶望の中で、それでも前を向いて歩き続けた彼女。老僧侶の穏やかな声が、重なり合う。「ありがとうございます。お坊さんのおかげで、もっとがんばれそうです」
私はもう一度壁画を見上げた。飛天が舞う姿、キャラバンが進む道筋。すべてが、私のこれからを照らしてくれている気がした。寺院のひんやりした空気の中で、静かに息を吐く。「私……ちゃんとここまで来たよ、葵さん」
古い仏教寺院の出口から差し込む強い陽光が、私の背中を押すように照らしていた。敦煌の朝は、まだ始まったばかりだ。
お読みいただきありがとうございました。
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