葵のノート ダイジェスト
(序盤はボールペンで書かれている)
(柚が西安を訪れていたのと同日付)
三十歳の女性科学者、葵は研究所で「時間制御装置」の冒険的実験に参加していた。夫と幼い娘、両親が待つ日常を少しでも豊かにしたいという思い、そして純粋な好奇心からだった。装置は理論上、過去への微小干渉を可能にするはずだった。しかし起動直後、制御不能の光が彼女を包み込み、激しい衝撃とともに意識は途絶えた。
目覚めた場所は、見知らぬ森の中だった。周囲の風景は現代とは明らかに異なり、空気も匂いも違う。彼女は弥生時代の山間部にタイムスリップしていた。三十歳の身体、着の身着のまま、紀元三世紀の日本に投げ出されたのだ。
弥生時代と現代の言葉は違うと聞いていたが、不思議と通じた。最初に出会った村人たちと普通に会話ができ、彼女は安堵した。人々は彼女を「天から降りた者」と畏怖し、村から村へと噂が広がった。その評判は、巫力の極めて高い邪馬台国の女王・卑弥呼の耳にも届いた。葵は卑弥呼の宮に招かれた。女王は彼女の目を見つめ、静かに告げた。
「お前は時の狭間に落ちた者。西方の大秦(ローマ)の都まで行け。そこで門が開く。家族の待つ未来へ、帰れるだろう」
大秦で、丸い建物、光の輪を探せ。
その神託は、葵の胸に強い希望の火を灯した。彼女はすぐに旅立ちを決意した。未来に残してきた夫と小さな娘、両親への思いが、彼女を支えた。希望に満ちた出発だった。
渡海の準備段階で、彼女はさらに驚くべき事実に気づいた。大陸の商人や船乗りと話したとき、なぜか彼らとも普通に会話ができる。不思議な天の恵みだった。
しかし現実の旅は、想像を遥かに超える過酷さだった。
海を渡る段階から困難が始まった。二度にわたり船が難破し、三度目の挑戦でようやく大陸に到達した。
(このあたりから毛筆で書かれている)
陸に上がってからも、試練は続いた。
港町で親切を装った男に荷物を預けて、詐欺に遭った。金も食料も道中の地図も失い、路頭に迷った。次に奴隷商人に売られた。鎖に繋がれ、遠い土地へ運ばれた。彼女は必死に逃亡した。夜の闇を這い、傷だらけで山を越え、川を泳いだ。二度目、三度目、四度目……何度も売られ、何度も逃げた。体は痩せ細り、髪は乱れ、彼女の顔には、老いの影が落ちていった。
三歩進んで二歩戻るような旅だった。
後に三国時代と呼ばれる戦乱の世界で、交易隊に紛れてわずかな銀を得ても、次の難所で奪われ、現代の知識を生かして村の病人の世話をしても、すぐに次の災厄が訪れた。誰もが自分の生きるだけで精一杯で、彼女の心は通じなかった。孤独と飢えと、絶え間ない裏切りが彼女を蝕んだ。夜、星空の下で、彼女は未来に残してきた家族の顔を思い浮かべた。娘の笑顔、夫の温もり、両親の声——それだけが、彼女を支える唯一の光だった。
三十年が過ぎた。
葵はついに長安の路地裏にたどり着いた。しかしそこに待っていたのは、老いと病と極度の貧困だった。浮浪者として、誰にも顧みられることなく、ただ死を待つだけの存在になっていた。体はもう動かず、息も絶え絶えだった。それでも彼女は、最後の力を振り絞って手記を綴った。高保存性の特殊素材の手帳に、震える筆致で自分の生涯を記した。
未来に残してきた小さな娘、夫、両親への想い。
三十年もの間、一度も忘れたことのない愛情。
卑弥呼の神託を信じ、西方の大秦まで行けば時の門が開くという最後の希望。
誰か未来の世界でこの手記を読む人がいることを願いながら、葵は正始元年の日付を添え、最後にこう記した。
「もしこの手記が、未来の誰かの手に渡ったら……どうか、私のことを家族に伝えてほしい。葵は、ずっとあなたたちを愛していたと。三十年もの間、決して諦めなかったと」
お読みいただきありがとうございました。
本作はカクヨムで先行連載中です。続きを気にしていただける方は、そちらもご利用ください。
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