終章 神奈川 2072年9月
大学入学式の朝だった。
目覚まし時計が鳴り、数秒後に止まった。カーテンが開かれ、薄曇りの光が部屋に入り込む。ベッドの上掛けが、丁寧に畳まれた。壁のカレンダーには、その日にだけ赤い丸が付けられている。部屋の隅に、まだ開けていない段ボール箱が二つ、積まれたままだった。本棚には、高校の教科書が隙間なく並んでいる。机の上、卒業アルバムが一冊、閉じられたまま置かれていた。クローゼットの奥、卒業式の日に着た制服の隣から、紺のスーツが取り出された。
洗面所で、顔を洗う水音が続いた。歯ブラシを動かす音、蛇口を閉める音。柚は鏡に映る姿を確かめてから、タオルで水気を拭った。
姿見の前で、襟を直す手が動いていた。ブラウスの襟元を整え、スカートの皺を軽く払う。袖口のボタンを、上から順に留めていく。胸元に、小さな記念のコサージュが留められた。鞄の中身を、順に確認していく。入学案内の書類、筆記具、財布、折り畳んだハンカチ。ファスナーを閉じて、肩にかけてみる。壁の時計は、八時を少し過ぎていた。
台所では、母親がテーブルにトーストと目玉焼きの皿を並べていた。父親の使った皿とカップは、すでに水切りかごに伏せてある。向かい合って座り、朝食を口へ運んだ。母が何か言い、短い言葉が返された。カップを傾ける音に、笑う気配が混じった。会話は、そう長くは続かなかった。皿を空にし、流しへ運ぶ。冷蔵庫の扉には、磁石で留められた古い写真が一枚、貼られたままだった。三人で写った、何年も前の写真だった。
洗面所の鏡で、髪を整えた。整髪料の匂いが、狭い空間にかすかに漂う。廊下の壁に掛かった姿見の前で、もう一度、全身を映した。玄関で靴を履き、踵を鳴らして合わせる。
ドアを開け、外へ出た。鍵をかける。乾いた音が、廊下に短く響いた。足音が、階段の方へ遠ざかっていった。エレベーターの扉が開き、閉まる音が、少し遅れて続いた。マンションのエントランスを抜け、自動ドアが背後で閉まる。朝の風が、外壁をかすかに撫でていく。植え込みの葉が、風に小さく揺れた。遠くで、電車の走行音が一度、低く響いて消えた。通りを、通勤の人波が一定の速さで流れていた。
駅までの道を、鞄の紐を握り直しながら進んだ。街路樹の葉が、何枚か色づき始めている。柚と同じような紺のスーツを着た、見覚えのない誰かとすれ違った。信号が変わり、横断歩道を渡る。
改札の電子音が、断続的に鳴っていた。認証装置に顔を向けながら改札を抜ける。ホームに滑り込んでくる電車の音が、遠くから近づいてきた。扉が開き、降りる客と乗る客がすれ違う。乗り込み、扉の脇に立つ。発車を告げるベルが鳴り、扉が閉まった。柚が眺める窓の外を、見慣れた街並みが後方へ流れていった。
柚の家のリビングには、誰もいなかった。ソファの上に、テレビのリモコンが投げ出されたまま残っている。壁際の観葉植物の葉が、わずかに揺れていた。窓のカーテンが、朝の光を薄く透かしている。埃の粒が、差し込む光の筋の中を、ゆっくりと漂っていた。
点けっぱなしのテレビが、音声を流し続けていた。天気予報の音楽が、静かに終わる。
「――以上、全国的に秋晴れが続く見込みです」
「――続いて、以前もお伝えした、中国・西安の遺跡で発見された手帳について、新たな情報が入っています。身元を明かしていない日本人旅行者が発見したもので、政府による分析の結果、手帳に記された内容が、発見と同時期に日本国内の量子物理学研究所で行われていた実験中に行方不明となった、当時三十歳の女性研究者に関するものである可能性が高いとして――」
壁の時計の秒針が、それからも規則正しく音を刻み続けていた。
完




