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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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断章 還る手帳 2072年7月

会議室のテーブルに、ジッパー付きポリ袋が一つ置かれていた。


中に入っているのは、一冊の手帳だ。


所長は眼鏡の位置を直しながら、腕を組んだままそれを見下ろした。袋の表面に貼られた管理番号のシールが、蛍光灯の光を鈍く反射している。


「で、これが問題の品か。西安《しーあん》で回収されたという」


「はい」と分析担当が答えた。三十代半ばの女性で、白衣のポケットに常にペンを二本差している。感情の起伏があまり外に出ない人物だった。「政府から正式に依頼を受けたものです。所長に先立って分析を進めておりましたので、本日はその報告から始めます」


「聞こう」


テーブルを挟んで、四人が座っていた。上座に所長。右に分析担当、左に歴史学者、そして歴史学者の隣の端に、今年配属されたばかりの若手が小さくなって座っている。


分析担当がタブレットを開いた。


「まず手帳の本体について。品名は『デュラノート・アーカイブPRO A6判』、一昨年に発売された超高耐久素材手帳です。現在も生産中で、入手自体は容易です。カバーは高分子複合素材で、摂氏三百度の熱、紫外線、水没、衝撃に対して高い耐性を持つとメーカーが謳っている製品です」


「現行品ですね」と若手が手元のメモに書き込んだ。鉛筆の先が滑らかに動く。


「ただし」と分析担当は続けた。「手帳そのものは現行品ですが、劣化の状態は現代のそれと一致しません。経年劣化のパターンと、内部に蓄積していた有機物の分解状況を解析したところ、製造後ではなく、製造前の環境にさらされていたことを示す痕跡《こんせき》が確認されました。要するに、この手帳は何らかの形で、少なくとも千数百年以上にわたる環境ストレスを受けています」


会議室が静かになった。


若手の鉛筆が止まる。


「……千数百年」と歴史学者がゆっくり繰り返した。六十代前後の男性で、所長の大学時代からの付き合いだという。白髪交じりの頭を片手で撫でながら、証拠袋をじっと見つめた。「つまり、手帳が現行品であることと、その劣化状態は矛盾している、と」


「矛盾しています」と分析担当は端的に言った。「ですが、これが事実です」


所長が鼻で笑った。低く、短く。


「捏造《ねつぞう》だ。手帳を人工的に劣化させたんだろう。方法はいくらでもある」


「その可能性は当然検討しました」と分析担当は表情を変えずに応じた。「しかし人工劣化の場合、処理の均一性や、劣化速度と深度の不自然な偏りが現れます。今回の劣化パターンは、長期にわたる自然劣化のものと統計的に一致しています。人工劣化との識別精度は九十七パーセントを超えています」


所長は何も言わなかった。眼鏡のつるを指で叩く。


「次に筆記内容について報告します」と分析担当はタブレットをスクロールした。「手帳への記入は二種類の筆記用具で行われています。序盤はボールペン。使用されているインクは、現在複数の文具メーカーが採用している普遍的な油性インクです。製造国や年代を特定の一社に絞り込むことはできませんが、少なくとも二十世紀後半以降に普及したタイプのものと判断されます」


「現代のボールペンだな」と所長が言った。確認というより、念を押すような口調だった。


「はい。一方、序盤以降の大部分は毛筆による記入です。こちらの墨について放射性炭素年代測定を実施したところ——」


分析担当が一度だけ言葉を切った。


「三世紀頃を示唆する結果が出ました」


若手の手から鉛筆が机の上を転がった。慌てて拾う。


「三世紀」と歴史学者が呟いた。今度は独り言のような声だった。目線が証拠袋に吸い寄せられている。「漢代末期から三国時代にかけての……」


「測定誤差の範囲はプラスマイナス五十年程度です。いずれにせよ、序盤のボールペン筆跡と、その後の毛筆筆跡は、同一の手帳内に存在しながら、製造年代として判定される時代が大幅に異なります。以上が分析の概要です」


しばらく誰も口を開かなかった。


窓の外で、室外機の唸りが続いている。


「内容は」と所長がようやく言った。「何が書いてある」


歴史学者がノートを開いた。


「私の方で解読と照合を進めた。序盤のボールペン部分は現代の日本語で書かれている。筆者は女性の研究者——三十歳、と自ら書いている。ある実験に参加した直後、見知らぬ場所で目覚めたこと。周囲の環境が現代と明らかに異なること。そして、近畿地方の山間部にいると推測していること」


「研究所から失踪した女性ですね」と若手が小さな声で言った。「先週、ニュースで……」


「まだそこには触れるな」と所長が制した。「続けろ」


歴史学者はノートのページをめくった。


「序盤以降は毛筆に切り替わっている。筆記具の変化は唐突だ。三世紀の標準的な漢文体ではなく、内容が進むにつれ、少し崩れ始めるものの、現代語に近い日本語の語順と語彙。これは、漢字と平仮名を知っていた日本語話者が、現地で入手した毛筆で書き続けたという状況と整合する」


「日本人が三世紀の中国大陸で毛筆を手に入れた、と」


「当時の交易路上であれば、それ自体は不可能ではない」と歴史学者は慎重に言葉を選んだ。「毛筆の起源は秦代まで遡れるし、三国時代の大陸にあったとして、何ら矛盾はない」


「内容はどうなんだ」


「過酷な旅の記録だ」


歴史学者は一拍置いた。老いた手がノートの縁をそっと押さえる。


「朝鮮半島から西方へ向かう旅の記録が、断片的に綴られている。詐欺に遭ったこと。奴隷として売られ、逃走したこと。交易隊に紛れて移動したこと……内容の細部には、三国時代の文物や交易路の状況と一致する記述が複数見られる。私が確認した限り、歴史的な誤りはほとんどない」


「ほとんど、ね」


「ゼロとは言えない。ただ、逆に言えば——三世紀の中国大陸の地理・風俗・交易の実態を、これほど正確に記述できる捏造者が現代に存在するかどうか、私には判断しかねる」


所長が立ち上がり、窓の外に背を向けた。


「三十年、と書いてあるんだったな」


「はい」


「つまりこの手記の筆者は、三十歳で行方不明になり、三世紀の日本と大陸で三十年を過ごし、六十歳で西安で死んだ、と言いたいわけか」


歴史学者は答えなかった。答えることのできる問いではなかった。


若手が手元のメモを見つめている。手帳の入手経緯として知らされたのは、最近、西安の遺跡で見つかった、という一行だけだ。西安——かつて長安《ちょうあん》と呼ばれた都市。そこで見つかった現代の手帳に、三世紀の墨で、三国時代の記録が書かれている。


論理が、どこかで壊れているはずだった。そうでなければいけないはずだ。


どこかで——確かに、どこかで。


「所長」と分析担当が静かに言った。「追加で一点だけ」


「なんだ」


「手帳の最終ページ付近に、判読困難な部分があります。文字の大半が潰れています。ただ、一文だけ、かろうじて読み取れました」


会議室の全員が、分析担当の方を向いた。


「筆跡は、手帳の中で最も細く震えています。墨の濃度も低く、おそらく墨が尽きかけていた、あるいは筆者の手が既に……」


分析担当はそこで一度だけ、言いかけた言葉を飲み込んだ。


「読み上げます」


短い沈黙。


「『もしこの手記が、未来の誰かの手に渡ったら——どうか、私のことを家族に伝えてほしい。葵は、ずっとあなたたちを愛していたと。三十年もの間、決して諦めなかったと』」


若手が顔を伏せた。


窓の外の室外機が、相変わらず唸り続けている。


所長は窓の外を向いたまま、何も言わなかった。


---


沈黙が、しばらく会議室を占領していた。


最初に口を開いたのは所長だった。振り返りもせず、窓の外を向いたまま言う。


「ニュースの説明をしろ」


若手が顔を上げ、タブレットを操作した。画面を開き、検索結果を読み上げる声がわずかに上擦った。


「えっと……約一か月前の日付です。『量子物理学研究所の女性研究者、実験中に行方不明』……三十歳、と書いてあります。実験装置の誤作動が疑われるが原因は不明、捜索は難航している、と」


「写真はあるか」


「……あります」


若手はタブレットを歴史学者の方へ向けた。歴史学者はそれを受け取り、画面を見た。眼鏡を外し、もう一度見た。それから静かに、所長の方へ差し出した。


所長がようやく振り返り、画面を一瞥した。


「……行方不明になったのは一か月前か」


「はい」


「手帳の最終記入の日付は」


歴史学者がノートを確かめた。


「正始元年——西暦二百四十年に対応します」


再び沈黙。


所長はテーブルに戻り、椅子を引いたが座らなかった。背もたれに両手をかけたまま、手帳を見下ろす。


「整理するぞ」と所長は言った。「一か月前、現代の研究所で女性研究者が行方不明になった。その日から間もなく——あるいはそれとほぼ同時に——西安で、現代の手帳が発見された。手帳には現代のボールペンで記入された序文と、三世紀の墨で書かれた本文が残っている。劣化状態は千数百年以上の自然劣化と一致している。内容の歴史的整合性は高い。筆者の名は葵、三十歳の女性研究者。以上が今日までに確認できた事実だ」


「そうです」と分析担当が答えた。


「それで、この手帳は本物か捏造か」


「捏造と断定するだけの根拠が、現時点では存在しません」と分析担当は言った。「ただし——」


「本物と断定するだけの根拠も、存在しない、と言うんだろう」


「はい」


所長は鼻から息を吐いた。今度は笑いとも溜め息とも取れない、短い音だった。


「おい」と歴史学者に向かって言う。「お前はどう思う」


歴史学者はノートの表紙を閉じた。返事をするまでに、少し間があった。


「私が思うことと、学者として言えることは、別だ」


「思う方を聞いている」


「……三国時代の大陸を、三十年かけて西へ向かった旅の記録だ」と歴史学者はゆっくり言った。「交易路の地名、商人の慣習、砦の位置、移動方法——細部の精度が高すぎる。捏造するなら、もっと杜撰な箇所が出る。人間は知らないことは書けないが、知っていても、うっかり時代の違う知識を混入させる」


「それが一切ない、と」


「私が確認した範囲では、ない。ただ」と歴史学者は続けた。「それが本物だとしたら、タイムスリップという現象を前提とせざるを得ない。科学的根拠のない概念だ。学者として、そこに踏み込む言葉を私は持っていない」


「要するに判断できないと言いたいわけだな」


「判断したくない、と言った方が正確だ」


所長は黙った。歴史学者を見た後、分析担当を見た。それから最後に、ずっと俯いたままの若手に目を向けた。


「おい、お前は――どうした」


若手が顔を上げた。目が赤い。


「す、すみません……」


「泣いているのか」


「泣いてません……泣いてないですけど」と若手は言いながら、指の甲で目元をこすった。「ただ、その……葵さんが、三十年間一人で旅をして、最後に長安で……その最後の一文が……」


所長は何も言わなかった。


「私が変なのはわかってるんです。これが本物かどうかも、科学的にはまだ何も言えないのに、なんか……なんかその、手帳の中の葵さんが、全然諦めてなかったのが……」


若手の声が途切れた。


歴史学者が手元のノートを少し動かした。音を立てるでもなく、ただ指先で表紙をなぞっている。


「諦めなかった、か」と歴史学者は小さく言った。独り言に近かった。「三十年……私が今まで生きてきた時間より、少しばかり短いな」


誰も笑わなかった。


所長が椅子に座った。


テーブルの中央に置かれた手帳を、四人が異なる角度から見ている。


「報告書をまとめろ」と所長は分析担当に言った。「事実のみ記載する。判断は政府に委ねる。我々の仕事は確認できたことを正確に伝えることだ。それ以上でもそれ以下でもない」


「了解しました」


「ただし」と所長は続けた。「最後の一文については、全文を引用して報告書に載せろ。一文字たりとも省略するな、絶対にだ」


分析担当が一瞬だけ所長を見た。


「……はい」


会議室の照明が、細く低い音を立てている。


袋の中の手帳は、何も語らない。語り終えた後の静けさで、ただそこにある。


現代の手帳に、三十歳の女性が現代のボールペンで書き始め、どこかで毛筆に持ち替え、三十年をかけて書き続けた記録が——千数百年の時間を経て、この小さな会議室のテーブルの上にある。


「解散だ」と所長は言った。


椅子を引く音が、重なって響いた。


若手が最後に立ち上がり、タブレットをバッグにしまいながら、もう一度だけ袋に目をやった。


葵、という名前が、まだ胸の中に小さく残っていた。


ドアが閉まり、廊下の足音が遠ざかっていく。


会議室には、空調の唸りだけが残った。



還る手帳 完

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