第16章2節
夕方、遺跡を出て、ホテルへ戻る道を歩いた。
団体客の列が、正門をくぐって解散していく。ガイドが最後に一礼し、旗を畳んだ。友人たちと固まって、駐車場脇の歩道へ出た。日中の熱気が、少しずつ引いていく。舗装された歩道を、スニーカーの底が規則正しく叩いていく。信号が青に変わり、横断歩道を渡る人の波に紛れた。車の滑るような走行音が、絶え間なく行き交っている。歩道の端に並んだ自動販売機が、低い駆動音を立てていた。
日が落ちきる頃、街の灯りが一斉に色を持ち始めた。ビルの壁面いっぱいに広がる電飾、看板の光、通りに並ぶ街灯。振り仰ぐと、高層ビルの輪郭が、光の粒で縁取られていた。窓という窓に、無数の明かりが灯っている。交差点の角では、巨大な看板の映像が、無音のまま次々と切り替わっていた。頭上を、小さな配送用のドローンが一機、羽音を立てて横切っていく。夜の記憶といえば、松明の匂いと、油灯の細い炎と、月明かりだけだった。それが今、頭上でこれほど眩しく塗り替えられている。目が、その眩しさになかなか慣れなかった。
信号待ちの間、懐に手をやった。やはり何も、なかった。
足の裏に、まだ石畳の凹凸が残っている気がした。厚い靴底越しに伝わってくるのは、均された舗装の硬さだけだった。踏み出すたび、その硬さと記憶の凹凸が、頭の中でわずかにずれる。しばらく違和感が拭えなかった。
大きな交差点に差しかかると、信号待ちの人だかりに囲まれた。肩と肩が触れ合うほどの密度だった。でも、誰も、こちらを気にかけない。押し合いも、値踏みするような視線もない。ただの一人として、群れの中に紛れていた。信号が変わり、一斉に足が動き出す。流れに乗って、歩道の向こうへ渡りきった。
屋台らしき匂いが、風に乗って流れてきた。串焼きだろうか、油と醤の焦げた匂い。鼻の奥が、一瞬だけ、遠い記憶の方へ引かれた。
友人たちの話し声が、少し前を歩いている。今日の遺跡の感想、夕飯はホテルの近くで何を食べるか、明日の予定。誰の声にも、二年半近い隔たりは含まれていなかった。歩調を合わせながら、時折相槌を打った。話題はめまぐるしく移り変わり、理解が少し追いつかない。
「柚、疲れた顔してるよ。今日は早めに寝たら?」
「うん、そうする」
短く答え、また前を向いた。
――夢だったのだろうか。長い長い、とても長い夢――
ふとそう思い始めていた。ホテルの灯りが近づいてきた。
エントランスの自動ドアが開く。冷えた空気が肌に触れた。フロントの明かり、磨かれた床、静かに流れる音楽。ロビーの隅で、他の観光客がスーツケースを転がしていく音がした。何もかもが、出発前と寸分違わなかった。
エレベーターに乗り込み、階数のボタンを押した。友人が隣で欠伸をしている。扉が閉まり、上昇する感覚に体を預けた。数字の並んだ表示灯が、階を追うごとに切り替わっていく。二十八ヶ月かけて刻んできたはずの距離が、この数秒に塗りつぶされていくような気がした。
部屋のドアを閉め、鍵をかけた。エアコンの吹き出し口が、低い音を立てて動き出す。窓辺に寄り、外を見下ろした。眩しい光の帯が、街路に沿って何本も伸びていた。人の流れも、車の流れも、途切れることなく続いている。しばらく、その光を眺めていた。ベッドの縁に、荷物を下ろした。手帳を、枕元にそっと置く。カーテンを引いた。
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夜、夕食とシャワーを済ませ、荷物を整理した。
帰国便に備えて、溜まった洗濯物をたたみ直し、ビニール袋に分けて詰めた。土産物を紙袋にまとめ、レシートの束をクリップでとめる。友人たちと撮った写真を、スマホの画面で何枚か見返した。誰の顔も、朗らかに笑っていた。ガイドブック、充電ケーブル、財布代わりのポーチ。買い足した小物を一つずつ確認しながら、リュックの中身を全部ベッドや机の上に広げていく。リュックの底で、指先に、硬い感触が触れた。
取り出すと、レーザーガンだった。
しばらく、ただ手のひらに乗せたまま、重みだけを確かめた。
白いボディに、ライトブルーとポイントカラーのピンク。手のひらに収まるサイズ。両親と三人でショッピングモールへ選びに行った日のことが蘇ってきた。あれは先月だったはずだ。父が勧めた大きなモデルを断り、女性向けコーナーで一目惚れしたこの機種を選んだ。帰ってから母が銃に向かって何か語りかけていたことも、思い出した。あの日握った時と、重さは変わらない。重さだけは、変わらなかった。
部屋の灯りにかざした。表面に、無数の細かい傷があった。一つ一つは浅い。角度を変えるたび、傷が光を拾って、違う陰影を作った。数えようとして、すぐにやめた。数えきれない、というだけで十分だった。グリップに彫られていた模様は、すっかり擦り減ってよく見えない。銀色の部分の塗装も、ところどころ剥げていた。裏返すと、底面にも細かい擦り跡が広がっていた。表も裏も、傷のない場所を探すほうが難しかった。
引き金に触れてバッテリー残量の表示に目をやった。数字は、変わらず点いたが、表示窓の左半分が、擦れて曇っている。指先で拭ってみたが、消えなかった。
左手で、グリップからハンドガードへ、ゆっくりとなぞっていく。
指が、止まった。
他の擦り傷とは、感触が違った。浅く広がる無数の線の中に、一本だけ、深くくっきりとした溝があった。指の腹で、その線をもう一度、ゆっくりとなぞった。
夜の砂漠。振り向きざま、投げつけられた刀。とっさに構えたハンドガードに、金属同士がぶつかる硬い衝撃があった。刃の重みと、握り込んだ手の力と、あの一瞬の緊張が、指先から蘇ってくる。乾いた風の匂いと、足の下で崩れる砂の感触が、束の間、鼻の奥と足の裏に戻ってきた。
しばらく、その一本の線から指を離さなかった。他の無数の傷は、二十八ヶ月という長さそのものを示していた。だが、この一本だけは、たった一度の出来事を示していた。長さと、瞬間。二つの違う時間が、同じ手のひらの上に並んでいた。
夜ごと、環首刀、短刀、この銃、護符——順に手に取り、確かめ続けてきた。その内の一つが、今、掌の中にある。他の三つは、もう、どこにもない。
枕元に置いた手帳へ、目をやった。傷んだ表紙が、灯りの下でそのままの形をしていた。石函から取り出した時と、変わらない姿のままだった。スマホも、靴も、服も、ホテルを出た時と変わらない姿のままだった。
もう一度、傷に指を這わせた。窓の外から差し込む街の光が、金属がむき出しになった傷の線を煌めかせる。エアコンの音が、部屋に低く響いていた。しばらく、傷を撫でては眺めるのを、何度も繰り返した。
充電器も、リュックの底に一緒にあった。取り出し、掌に乗せる。原子力電池の暖かさが残っている。
もう一度、レーザーガンを持ち上げ、灯りの角度を変えてみた。光の当たり方が変わるたび、傷の見え方も変わる。ある角度では、無数の細かい線がほとんど見えなくなり、なめらかな白に戻ったように見えた。角度を戻すと、また元通り、傷だらけの表面が浮かび上がった。何度か、その角度を行き来してみた。
レーザーガンを、そっとリュックの外ポケットにしまい直した。充電器も、隣に並べる。ファスナーを閉じ、荷物を壁際に寄せた。
ベッドに横になり、天井を見上げた。エアコンの吹き出し口が、規則正しく回り続けていた。窓の隙間から、街の灯りが細く漏れている。壁の向こうから、誰かのシャワーの音がかすかに響いていた。しばらく、指先に残る感触を、確かめ続けていた。傷の位置、深さ、角度。目を閉じても、はっきりと思い出せた。やがて、その感触も、まぶたの重さに紛れていった。
第十六章 了




