第16章1節 西安 2072年6月
光が引いていく感覚のあと、しばらく、何も摑めなかった。上も下も、輪郭を失ったままだった。皮膚の表面を撫でていた何かのざわめきが、少しずつ止んでいく。
やがて、遠くで音がし始めた。タイヤが舗装を捉える、乾いた連続音。誰かの笑い声。観光客らしい話し声が、いくつも重なって流れてくる。ずいぶんと長いこと、耳にしていなかった種類の響きだった。音に押されるように、瞼を開けた。視界に入ってきたのは、薄闇だった。
崩れた石壁の隙間から、細い光が一本、地面へ差し込んでいる。埃の粒が、その中でゆっくりと舞っていた。埃っぽい、乾いた匂いが鼻の奥に触れた。遠いあの日、初めてこの場所に足を踏み入れた時と、同じ匂いだった。立ち入り禁止の標識も、崩落部の輪郭も、記憶にある通りだった。整えられた見学路も、案内板も、どこにもない。
地面に、座り込んだ姿勢のままだった。足を組み直し、両手を地面についてから、ゆっくりと体を起こした。めまいはなかった。関節が軋む感じも、筋が突っ張る感じもなかった。ずっと、体に溜まっていたはずの重さが、どこにも見当たらなかった。
すぐそばに、蓋の開いた石函があった。中は、空だった。指先で縁をなぞってみたが、それ以上のことは何も分からなかった。目を落とし、それきり見なかった。
手のひらに、重みがあった。目を落とすと、手帳があった。石函から取り出した、あの瞬間と、寸分違わない状態だった。指の腹で、表紙をなぞった。饐えた匂いも、湿った重みも、ない。シルクロードを旅する間、温め続けてきたはずの手帳が、たった今受け取ったばかりのように軽かった。数ページ、めくってみる。葵さんの震える筆致が、そこにあった。それを確かめて、閉じた。
腰に手をやった。何もなかった。環首刀の硬さも、帯に食い込む革の感触も、そこにはなかった。懐に指を当てた。護符の丸みも、ない。短刀の柄もなかった。
手の甲を見た。日に焼けた跡が、ない。荷紐で擦れた跡も、どこにもなかった。皮膚は、白く滑らかだった。掌を返す。マメの硬さも、刀を握り続けた指の皮の厚みも、消えていた。爪の先も、割れたり伸びすぎたりしていない、整った形に戻っている。指先で頬に触れた。唇の端の乾きも、剥けた皮膚もない。髪を一房、指に絡めた。肩より少し上の長さで止まっている。伸びた気配も、潮風と砂に傷んだ手触りも、なかった。
体そのものが、二十八ヶ月分、丸ごと巻き戻っていた。
膝を軽く曲げてみる。擦れるような感触も、こわばりも、ない。片足に体重をかけてみる。脹脛に張りはなかった。足の裏に、靴擦れの硬さもない。ゴム底越しに、地面の固さだけが伝わってくる。踏み出すたびの重さも、消えていた。息を吸うと、肺の奥まで、抵抗なく空気が入っていった。
着ているものを確かめた。Tシャツ、ジーンズ。旅装ではなかった。麻の擦れる感触の代わりに、薄くなめらかな布が肌に貼りついている。ポケットに手を入れると、板状の感触があった。取り出すと、スマートフォンだった。電源は入っていた。長安であの時消したはずのデータも戻っていた。しばらく画面を見つめてから、また元のポケットへ戻した。
しばらく、その場に立っていた。心臓の音だけが、耳の奥で規則正しく続いていた。外の声が、少しずつ近づいてくる気配があった。埃の匂いの向こうに、かすかに、陽に炙られたアスファルトの匂いが混じり始めている。
ふと、半ば無意識に手を伸ばすが、確かめる武器はもう、ない。二年間、毎夜繰り返してきた所作を途中で止めた。
崩落部の奥、光の差す方へ、目を向けた。息を、一つ、大きく吸い込んだ。手帳を、バッグにしまう。崩れた石材に手をつき、隙間の縁を跨いだ。外の光が、目の奥に強く差した。声のする方角へ、体を向けた。
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「柚ー! どこ行ってたのー!」
声のする方へ体を向けると、崩落部の脇から友人の一人が顔を覗かせた。大きく手を振っている。もう一人が、少し遅れて追いついてきた。
「ごめんごめん、ちょっと奥まで見ちゃって」
――そんな言葉が反射的に出た。こんな風に話してたんだ、私。
「もう、勝手に一人で行かないでよー。ガイドさんも探してたんだから」
「変な虫でも見つけたのかと思った」
軽口が飛んでくる。笑って首を振り、歩調を合わせた。六月の陽射しが、頭の上からまっすぐ落ちてくる。遠くで、蝉の声が途切れなく続いていた。
周りには、団体客の列がいくつも動いている。スマホを掲げてあちこち撮る観光客、旗を振るガイド。
土産物の呼び込みは、声は大きいが何を言っているのかわからなかった。
日に焼けた跡も、伸びた髪も、そもそもどこにもない。異変はないはずだったが、同じ学び舎で過ごした友人たちは鋭かった。
「柚、なんか目怖いよ? 中で何かあった?声も何か低いよ?」
「別に。ただの崩れた壁。ちょっと埃っぽかっただけ」
「はいはい、柚の好奇心にはいつも付き合わされるー」
笑いながら、友人が背中を軽く押してくる。押された分だけ、前へ歩いた。特に何も答えず、笑みだけを返した。何一つ説明できることはなかったし、説明する気も起きなかった。
団体の中心では、ガイドが旗を掲げ直していた。「はぐれないでくださいねー、次は本殿跡に行きますよー」という声に、友人が横から「柚が一番危ないんだから」とからかう。笑い声が上がった。列がゆっくりと動き出す。舗装された道を、みんなの足音が揃って進んでいく。
「お昼、どうする? さっき見た麺の店、気になってたんだけど」
「いいね、行こ行こ」
会話は、あっという間に別の話題へ移っていった。列の後ろについて歩きながら、周囲を見渡した。土産物屋の看板、掲げられた電子案内板、遠くに聳える高層ビル群。古い門の向こうに、現代の街並みが透けて見えている。ここへ来た初日、友人たちと見上げたのと同じ眺めだった。
「ねえねえ、あそこの塔バックに写真撮ろうよ!」
一人がスマホを構えて呼びかけてくる。頷いて、輪の中央へ足を進めた。肩を並べると、隣の子が自然に腕を絡めてくる。触れた腕の感触に、一瞬だけ、体が強張った。すぐに、力を抜いた。
「はい、笑ってー、チーズ!」
シャッター音が響いた。画面をのぞき込む輪の中、自分だけが少し遅れて笑っていた。誰も、それに気づかなかった。
写真を撮り終え、列がまた動き出した。歩き出す前に、一度だけ、崩落部の方を振り返った。標識も、崩れた石壁も、さっきのままそこにあった。他の観光客が、興味なさそうにその脇を通り過ぎていく。それだけを確かめて、また前を向いた。




