第15章4節
二十二日目、靴底は、もうほとんど擦り切れていた。
宿の主人は何も聞かなかった。探し物の話は、もう互いに触れなくなっていた。肩に荷物袋を掛けて宿を出た。
その日も、まだ足を向けていない一角へ向かった。住宅ばかりが続く、地味な区画だった。神殿らしきものは、この道の先にはなさそうだった。それでも、しらみ潰しにする以外、方法はなかった。訪ねる先の候補は、指折り数えるほどしか、もう残っていなかった。空の色が、いつもより高く澄んでいるのが、歩きながら目に入った。雲一つない青が、いつまでも続いているようだった。道の端で、洗濯物を干す女が、こちらを一瞥しただけで、また作業に戻った。もう、見慣れた顔として通り過ぎるだけの存在になっているらしかった。
道端で、井戸端会議をしていた女たちの脇を通り過ぎた。何度も聞いた噂話の断片が、また同じように耳をかすめていった。今日も、期待はしなかった。期待しないことに、いつの間にか慣れていた。
「パンテオンなら、あの先だよ」
通りすがりの男に道を尋ねると、そう言って指をさしてくれた。
路地を折れた先に、円柱の並ぶ玄関があった。奥行きのある柱廊が、道の正面から奥へと続いている。柱の太さも高さも、これまで通り過ぎてきたどの建物とも違っていた。一本の柱に手のひらを当てると、指を回しても届かないほどの太さだった。石の表面は、思ったよりも滑らかで、ひんやりとしていた。先ほど耳にした名前が、頭の隅で像を結んだ。三角形の破風の下、柱の上に渡された横木に、文字が連なって刻まれていた。初めて見る書体だったが、目で追うと、意味の方が勝手に頭へ流れ込んできた。人の名と、地位を示す肩書き、それに「造らせた」という一語だけの、簡潔な献辞だった。
柱廊の先に、巨大な扉が見えた。金属の板を張り合わせたらしい扉は、両開きで、人の背丈の何倍もの高さがあった。片方だけが薄く開いており、そこから、人が数人、出入りしている。表側には、緑がかった色の錆が、模様のように広がっていた。神殿という触れ込みは、道中の誰からも聞いていなかった。ただの通りすがりに、目に入っただけだった。看板も、案内らしきものも、何もなかった。周りの住宅と地続きのように、そこにあるだけの建物だった。
足が、勝手にそちらへ向いた。
「呼ばれている」ような気がした。
柱の間を抜け、扉をくぐった。足音が、思いのほか大きく響いた。天井の高さが、音の反響の仕方だけで分かった。
中に入った瞬間、床の大理石の冷たさが、素足の感覚よりも先に伝わってきた。天井を見上げるより前に、体の方が、何かを察していた。外の日差しの熱が、扉一枚で断ち切られたように、涼しい空気に包まれた。かすかに、香を焚いた匂いが漂っていた。話し声のざわめきが、外の通りとは違う響き方で、天井の方から降ってくるように聞こえた。
丸い空間だった。壁は、これまで見てきたどの神殿よりも高く、途切れることなく円を描いて続いている。壁のくぼみに、いくつもの像が立ち並んでいた。床には、円と四角を組み合わせた模様が、隙間なく敷き詰められている。色の違う石を組み合わせた、細かい仕事だった。天井は、格子状に窪みが刻まれ、頂へ向かうほど、その格子が小さくなっていくように見えた。何重もの輪が、天井の丸みに沿って、規則正しく並んでいる。頂の一点に、円い穴が開いていた。そこから、一条の光が、まっすぐに床へ落ちている。埃の粒が、光の筋の中でゆっくりと舞っていた。真上から差す光の角度からして、日はちょうど中天に近いらしかった。数人の参拝者が、それぞれの目当ての像の前で足を止め、また離れていく。誰も、光の落ちる場所には、目もくれなかった。
足が、止まった。
音が、遠くなった。周りにいたはずの人の話し声も、靴音も、耳の奥で薄れていった。光の落ちる場所だけが、やけに近く感じられた。首筋の産毛が、微かに逆立つような感触があった。これまで空振りに終わった予感とは、明らかに質が違っていた。
ここだ、と思った。言葉にする前に、体の方がすでに知っていた。鼓動が、一つ、大きく打った。
しばらく、その場から動けなかった。数える気にもならないほどの時間が、そのまま過ぎた。扉の方から、新しい客が入ってくる気配がした。それでも、足は動かなかった。この街に来てからずっと、ずっと繰り返してきた「今日も違った」という結論が、この場所にだけは、まだ当てはまらないままだった。
光の中へ、一歩、踏み出した。床を渡る間、幾何学模様の継ぎ目を、爪先が一つ一つ踏み越えていくのが分かった。
大理石の床に、光の輪が落ちていた。円い縁が、くっきりと床を区切っている。数日前、どこかの神殿で、柱の影だと分かって通り過ぎた、あの一瞬の環が、頭の隅をかすめた。踏むと、素足の裏に、他の場所より少しだけ温かい感触があった。目を凝らすと、光の輪は、ごくわずかに床の上を動いているようだった。日の傾きに合わせて、少しずつ位置を変えているらしかった。
二十二日間、強張らせ続けていた肩の力が、その場に立った途端、抜けていくのが分かった。奥歯を噛みしめる癖が、いつからか付いていたことにも、力が抜けて初めて気づいた。
見回した。壁際に並ぶ彫像、床の幾何学模様、頭上の丸い穴。人の出入りは、思ったより少なかった。祈りに来たらしい老人が一人、隅の像の前で頭を垂れているだけだった。老人が、ふと顔を上げ、こちらへ目を向けた。会釈するように小さく頭を下げると、老人も同じように頷き返し、また祈りに戻った。それだけのやり取りだった。誰の目にも、ただ観光に訪れた旅人の一人としか映っていないはずだった。この街を探し回った末にたどり着いた場所だとは、誰も知らない。何度も歩いた神殿の、どれとも違う静けさが、そこにあった。
壁のくぼみに立つ像を、一つ一つ見て回った。武具を纏った像、盾を抱えた像、穏やかな顔つきの像。それぞれの前に、小さな供物が置かれている。誰の像かは分からなかったが、大切に祀られていることだけは伝わってきた。
指先を、光の中へ伸ばしかけた。
止まった。
理由は、分からなかった。伸ばしかけた指が、途中で固まったまま、動かなかった。詰めていた息も、そのまま止まっていた。喉の奥が、僅かに強張った。
掌に、重みが蘇った。
刺されて、腕の中で息を引き取った老人の重み。守られた重み。あの日の血に濡れた砂の匂いが、束の間、鼻の奥に戻ってきた。何か言おうとして、言えなかった、あの時の喉の詰まりも。伸ばした指の先が、覚えている限りの、最後に触れた肌の感触を、一瞬だけなぞった。次第に力を失っていった腕の重さも、掌の記憶の底に、まだ残っていた。
続けて、別の重みが上から重なった。首の骨に当たって止まった刃の重み、握ったトリガーの感触、倒れていった数——三、それから、六。合わせて九。それらが、輪郭のないまま、掌の上を通り過ぎていった。長い道のりの分だけ、掌に刻まれたものも、増えていた。
門の前に立って、なぜ足が竦むのか。分からないまま、それでも、記憶はその二つの重みだけを、静かに差し出してきた。これほど長く探し続けてきた場所を前にして、足が動かなくなるとは、思ってもみなかった。
「何をいまさら」
低く零れた、自嘲の響きが、声に残った。喉の強張りが、それと一緒に緩んでいった。頬の内側を、軽く噛んだ。痛みが、意識をはっきりさせた。
止まっていた息を、吐いた。指先を、また光の中へ伸ばした。指の腹に、光の暖かさが触れた。
門は、本当にあるのか。三十年と二年半、答えの出なかった問いに、指先が静かに答えを返していた。
周囲を、もう一度見回した。頭上の光は、変わらず、同じ角度で床を照らしていた。誰にも見られていないことを確かめてから、光の輪の中に、静かに立ち続けた。心臓の音だけが、耳の奥で、規則正しく続いていた。腰の環首刀の重みと、帯の後ろの革鞄の重みを、順に確かめた。懐の護符にも、指先で触れた。すべて、いつも通りそこにあった。
長安を出てから、二十八ヶ月。光の輪の外側へ、爪先を一度だけ引いてみた。すぐにまた、元の場所へ戻した。ここに残る理由は、もうなかった。
祈っていた老人が、いつの間にか立ち去っていた。入れ替わりに入ってきた別の客も、興味なさそうに壁際の像を一巡りして、また出ていった。誰も、光の輪に立つ私を、気に留めなかった。人の出入りは、途切れることなく続いていたが、その中心にいる自分だけが、周りとは違う時間の流れの中にいるようだった。
頭上の穴だけが、変わらず、同じ光を注ぎ続けていた。足の裏に伝わる温かさも、指先に触れた光の感触も、消えなかった。肩に掛けた荷物袋の重みを、もう一度、確かめた。息を、一つ、大きく吸い込んだ。




