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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第15章3節

朝、宿を出る。夜、宿に戻る。それを、繰り返した。


葵さんの手記に、門の形は書かれていない。場所も、書かれていない。丸い建物、光の輪という単語があるだけだ。何度読み返しても、新しい発見はなかった。それでも、ひたすら市内を歩いた。


一日目、フォルム・ロマヌムへ足を向けた。石柱の連なりが、広場を囲むように立っていた。神殿の名を、一つ、また一つ、頭の中で消していった。サトゥルヌスの神殿、ウェスタの神殿、双子の神を祀る神殿。柱の間を歩き、床の敷石を見て回った。露店で香を売る老人に、それとなく尋ねた。


「古くから伝わる、光る輪の話を、聞いたことはありますか」


老人は、首を傾げただけだった。


「輪、というと」


「なんでも、いいんです。円い建物とか、光の伝説とか」


「さあ。この街は、神殿だらけだからねえ。一つ一つ聞いて回るのかい、変わってるね」


要領を得ない問いに要領を得ない答えが、返ってきた。礼を言って、次の場所へ足を向けた。広場の隅、演説台らしき石の壇の周りにも、人だかりができていた。誰かが、声を張り上げて何かを訴えている。その脇を通り過ぎた。


二日目、カピトリヌスの丘へ登った。石段を踏むたび、街の全景が少しずつ広がっていく。頂には、ひときわ大きな神殿があった。柱の間を歩き、床の敷石を目で追った。光の落ち方に、変わったところはなかった。神官らしき男に、同じ問いを投げてみたが、返ってきたのは首を振る仕草だけだった。


三日目、円形闘技場《アンフィテアトルム》の前を通った。石積みの巨大な輪が、街の一角にそびえていた。観客を待つ人だかりが、入り口に列を作っている。呼び込みの声、賭け事の話し声。中には入らず、外周を一周しただけで、次へ向かった。大競技場《チルコ・マッシモ》も、遠目に眺めただけだった。走路を囲む観客席の広さに、一瞬、目を留めたが、それだけだった。両方とも、手記に書かれた何かとは、結びつかなかった。


四日目から七日目にかけて、名の知れた神殿、路地裏の小さな祠、広場の隅に建つ社を、片端から回った。訪ねては、遠回しに尋ね、要領を得ない答えを受け取り、次へ向かう。その繰り返しだった。


「昔、この辺りに不思議な言い伝えがあると聞いたことは」


「不思議、ねえ。聞いたことないな」


「じゃあ、円い建物で、変わった噂のあるところとか」


「知らないね。悪いが、商売の邪魔だ」


噴水のそばで遊んでいた子供たちにも、同じことを尋ねてみたが、笑いながら逃げていくばかりだった。似たようなやり取りが、日を追うごとに積み重なっていった。ある日は、丸一日歩いても、何一つ手がかりらしきものが得られなかった。それでも、次の朝には、また同じように宿を出た。焦りは、表に出さなかった。当てもなく歩き続けることそのものが、今の仕事だった。


裕福な地区を離れ、下町の路地にも足を延ばした。狭い通りに、小さな神殿が押し込まれるように建っていた。壁の煤け方、供物の質素さが、フォルムの神殿とは違っていた。それでも、聞くことは同じだった。答えも、同じように要領を得なかった。道を折れるたび、同じ角を二度通っていることに気づき、苦笑まじりに引き返した日もあった。


八日目、ある神殿の床で、日の光が、一瞬だけ環を描くのを見た。足が、勝手に止まった。近づくと、ただの柱の影だった。それだけのことだった。何も言わず、また歩き出した。


九日目は、朝から雨だった。石畳が黒く濡れ、露店の男たちが慌てて布をかけていた。それでも、探索は休まなかった。濡れた髪を何度も拭いながら、いくつかの神殿の軒下を渡り歩いた。雨脚が強まると、軒先で雨宿りする人々に混じり、しばらく足を止めた。誰も、言葉を交わさなかった。雨音だけが、石畳を叩き続けていた。得るものは、いつもと変わらなかった。


十日目、市場の隅で、老人たちが立ち話をしていた。通りすがりに、その一言が耳に入った。


「昔、光る輪の中に消えた男がいたそうだ」


「本当かい、そんな話」


「さあな。爺さんの、そのまた爺さんの話らしいが。今どき、誰も信じちゃいない」


笑い声が上がり、別の話に流れていった。


十一日目、アウグストゥスが築いたという広場を訪ねた。列柱の奥に、また別の大きな神殿があった。壁一面に、戦の様子を彫り込んだ装飾があったが、目を留める余裕はなかった。同じ問いを投げ、同じような曖昧な答えを受け取った。


十二日目、石段状に建物が連なる、市場を兼ねた一角を回った。神殿ではなかったが、念のため、円い天窓のある部屋はないかと尋ねてみた。管理人らしき男に、怪訝《けげん》な顔をされただけだった。


十三日目、川向こうの丘に登り、狩猟の女神を祀る神殿を訪ねた。木立に囲まれ、これまで見た神殿とは、静けさの質が違っていた。それでも、答えは同じだった。


十四日目、劇場と、その脇に建ち並ぶ神殿群を訪ねた。柱廊の下を、老いた巫女らしき女がゆっくりと歩いていた。声をかけると、じろりと一瞥され、無言で立ち去られた。それ以上、追いかけはしなかった。


同じ問いを、あまりに繰り返しすぎたせいか、日を追うごとに、怪訝な顔をされる回数が増えていった。聞き方を、少しずつ変えるようにした。直截《ちょくせつ》に尋ねず、世間話の中に紛れさせる。それでも、得られるものの質は、大して変わらなかった。


ある日、水売りの男に「昔から不思議な言い伝えのある場所」を尋ねたところ、自信ありげに案内された先は、ただの共同便所だった。「昔、幽霊が出るという噂があった」というだけの話だった。礼を言って、その場を離れた。案内料として、余計に銭を一枚渡していたことに、遅れて気づいた。徒労感を顔に出すこともなく、次の路地へ足を向けた。


役人の邸宅らしき門の前を通りかかった日もあった。門番が、槍を構えて立っていた。中を覗くことすら許されず、素通りするしかなかった。


反復の合間、一度、近所の小さな浴場に立ち寄った。テルマエ・カラカラほどの規模ではない、簡素な造りの建物だった。湯に浸かり、汗を流しただけで、長くはいなかった。


北の方角に、まだ足を向けていない一角があった。丸屋根らしきものが、遠目にちらりと見えた気がしたが、日が暮れかけていた。翌日に回すことにして、その日は宿へ戻った。


宿の主人に、探し物の進み具合を聞かれることが、何度かあった。


「まだ、探し物は見つからないのか」


「はい。もう少し、かかりそうです」


「気長にやるんだな」


それ以上、深くは尋ねられなかった。適当に頷き、椀の粥を口に運んだ。


十日ほど過ぎた頃には、市場に並ぶ果物の顔ぶれが、少しずつ変わっていた。無花果《いちじく》が減り、代わりにオリーブの実を搾る季節が近いのだと、露店の男が世間話ついでに教えてくれた。夏の名残が、少しずつ薄れていくのが、風の冷たさと、市場の品揃えの両方から分かった。


ある日、市場で荷を検めていた商人に、呼び止められたことがあった。


「風変わりな剣だな。使えるならうちで働かないか」


「今は、探し物があるので」


「そうか。まあ、気が変わったら来るといい」


それだけで、商人はまた自分の仕事に戻っていった。断る言葉が、すんなりと口から出たことに、自分でも少しだけ驚いた。宿代がなくなれば、いずれ同じような話に頷くことになるかもしれない。それでも、今はまだ、探すことを優先していい日数が残っていた。


十五日目、十六日目と、川に近い平坦な一帯を歩いた。競技場や、柱廊に囲まれた広場が、いくつも点在していた。神殿の数も、これまでの地区よりずっと多かった。人の往来も、他の地区より一段と多かった。一つ一つ当たっていくには、まだ何日もかかりそうだった。目当ての建物らしきものは、まだ見つからなかった。


十七日目、その一帯の奥、住宅が密集する区画に差しかかったところで、日が暮れかけた。その先は、また明日にすることにした。人の住む建物ばかりが続く、なんの変哲もない一角に見えた。それ以上、深くは踏み込まなかった。


十八日目は、朝から風が強かった。埃が舞い、目を細めながら歩いた。旗のような布が、あちこちの軒先ではためいていた。神殿の名を、また一つ、頭の中で消した。得るものは、なかった。


十九日目、二十日目と、日数だけが積み重なっていった。訪ねる先の候補が、目に見えて少なくなっていた。残っているのは、住宅地の奥にある小さな祠か、あるいは、まだ足を踏み入れていない一角だけだった。地図など持たない頭の中に、これまで歩いた道筋だけが、複雑に折り重なって残っていた。


屋台のパンを一つ、立ったまま齧った。歩き疲れた足を止め、次の神殿への道を頭の中で確かめてから、また歩き出した。別の日、串に刺した焼き肉を、露店の隅で立ち食いした。汁が指を伝ったが、拭う暇も惜しんで、そのまま次の路地へ入った。神殿の石段に腰を下ろし、行き交う人を眺めながら、しばらく足を休めた日もあった。それも、数を数えるほどの短い間だけだった。


同じ通りを何度も歩いているうち、顔を覚えられたのか、ある老女が、水の入った椀を黙って差し出してきたことがあった。受け取り、飲み干し、椀を返した。それだけのやり取りだった。老女は、何も聞かず、何も言わず、また自分の仕事に戻っていった。同じ道を、何度も同じ時刻に歩いているという、それだけのことが、見知らぬ誰かの目に留まっていた。


最初の日にあった、脹脛《ふくらはぎ》の張りや靴擦れの痛みは、いつの間にか感じなくなっていた。代わりに、もっと底に沈むような疲労が、体の芯に溜まっていくのが分かった。肩の高さが、朝と夕方で違って感じられた。日差しに炙られた首の後ろで、皮が剥け始めていた。唇の端が、また乾き始めていた。それでも、歩みは止めなかった。


宿に戻るたび、銭は、少しずつ減っていった。靴底も、日を追うごとに薄くなっていく感触があった。踵の皮が硬くなり、以前ほど豆はできなくなっていた。日数の計算と、資金の計算を、頭の中で並べて考える。あと何日、探せるか。あと何日分の宿代が残っているか。指を折って数えると、あと五日ほどは、切り詰めれば持つ計算だった。それを超えたら、また仕事を探すしかない。


夜、板の間の隅で、いつもの型をこなした。環首刀《かんしゅとう》を鞘から抜き、刃を確かめてから、また納める。短刀も同じように。レーザーガンを素早く抜いて狙いを定め、元の場所へ戻す。懐の護符に、指先で触れる。それを終えてから、灯りを消した。窓の外の物音が、日ごとに少しずつ違う調子で聞こえてきた。


街のあちこちで、普請《ふしん》の音が続いていた。装飾を施した足場、運び込まれる石材。何かの支度が進んでいるらしかったが、深く調べなかった。市場で聞いた「祭り」の一言が、ふとした拍子に頭をよぎることもあったが、その頃には私はこの時代にはいない。そのはずだ。


もう、訪ねた神殿の数を、正確には覚えていなかった。名を覚えているものより、覚えていないものの方が、いつの間にか多くなっていた。宿の壁に映る自分の影が、心なしか痩せて見えることに、ある夜、ふと気づいた。


門は、本当にあるのか。その問いはまだ答えを持たないまま、体の奥に残っていた。神殿を一つ訪ねるたび、その問いをしていた。答えが出ないまま、また朝が来る。それを、繰り返していた。


それでも、足を止める理由には、まだならなかった。


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