第15章2節
眩しくて目が覚めた。鎧戸の板の隙間から差し込む光の筋が床を這っていた。体を起こすと、脹脛の張りは、まだ残っていた。それでも、昨日よりは幾分ましだった。荷物を確かめてから、階下へ降りた。
朝、宿の食堂で、粥を椀に受け取った。湯気が、まだ薄暗い部屋の中で細く立ち上っていた。窓から差し込む朝の光が、板の卓の木目を浮かび上がらせている。他の泊まり客も、数人、思い思いの席で食事をとっていた。旅装のまま眠りに就いたらしい商人風の男、隅で干し肉を齧る若い二人連れ。誰も、大きな声は出していなかった。
向かいに腰を下ろした主人が、こちらの顔を覗き込んで言った。
「顔色が、良くない」
「船が、長かったので」
「陸に上がっても、まだ揺れているような目をしている」
否定はしなかった。匙を動かす手を止め、少しだけ頷いた。粥は、麦の粒がまだ形を保ったまま、塩気だけで味付けされていた。硬いパンよりも、喉を通りやすかった。
「体の調子を整えるなら、テルマエだね」
世間話のついでのように、主人が続けた。近くにある大きな浴場の名を挙げ、道順を指で示した。市場の場所、安全に水を汲める井戸の場所も、同じ調子で教えてくれた。他の泊まり客が席を立つたび、主人はそちらへも一言二言声をかけ、また戻ってきては話の続きを継いだ。宿の主として、この界隈の全ての客に同じ調子で接しているらしかった。
「安宿だが、案内だけはしてやる主義でね。旅の者は、皆それを聞きたがる」
「あと、目につく丸い建物、あれは何ですか」
さりげなく尋ねると、主人は少し考えてから、いくつかの神殿の名を挙げた。フォルムの周り、カピトリヌスの丘の近く、あの辺りに大きな神殿が集まっている、とだけ答えた。
「観光か」
「見て回りたいだけです。神様を、いくつか拝んでおこうと」
「変わった娘だ。まあ、この街は神殿だらけだ。歩けば、いくつも目に入る」
それ以上は、深く尋ねなかった。頷き、匙を椀に戻した。
食事を終え、水汲みに出た。籠を提げた老人や、子供を連れた女が、あちこちの路地から井戸端へ向かっていた。井戸端には、桶を提げた女が数人、順番を待って立っていた。列の後ろに並び、挨拶を交わすうち、また同じように市内の様子を聞いた。
「フォルムまでは、この道をまっすぐですか」
「まっすぐ行って、大きな柱が見えたら右だよ。迷ったら、人の流れについていけばいい。皆、そっちへ行く」
女は、桶を持ち替えながら、丘の方角を指さした。目印になる建物の形、朝市が立つ通りの位置。もう一人、隣に並んでいた老女が、笑いながら口を挟んできた。
「異国の子か。珍しい目と肌の色だね」
「はい。長い道でした」
「そうかい。じゃあ、テルマエでゆっくり疲れを流すといい」
主人と同じ助言を、別の口から、もう一度受け取った。
「そういえば、来年は祭りだとか」
老女が、隣の女に向けて呟いた。
「ああ、あちこちで普請が始まってるものね」
二人のやり取りに、深くは踏み込まなかった。ただ、頭の隅に留めた。二人分の話を重ねると、街の大まかな輪郭が、少しずつ像を結んでいった。順番が来て水を汲み、礼を言って井戸端を離れた。
宿へ戻り、主人に言われた通りの道をたどった。石畳の道幅が、次第に広くなっていく。露店の並ぶ通りを抜けると、やがて、これまでの都市のどの建物とも違う規模の建造物が、道の先に見えてきた。壁の高さ、奥行き、行き交う人の数——どれも、桁が違った。列に並ぶ客の身なりも、さまざまだった。粗末な布を纏った者、上等な衣を着た者。誰もが、同じ入り口へ吸い込まれていく。近づくにつれ、壁の向こうから、水の跳ねる音や、大勢の話し声が、低く重なって聞こえてきた。入り口の柱に彫られた模様が、日差しを受けて陰影を作っている。荷を抱えた客の列ができていた。列に並び、順番を待った。前に並ぶ客の数を数えて、待ち時間の見当をつけた。急ぐ理由は、なかった。
入り口で、驚くほど安い入浴料の銭を差し出した。番人が受け取り、顎で中を示した。
列を抜け、中へ入ると、天井の高さが、外から見た以上のものだと分かった。声が反響し、大勢の話し声が一つの低いざわめきに溶けて聞こえた。床には、細かい石を敷き詰めた模様が広がっている。魚や波を象った柄が、歩くたびに足元で移り変わった。
更衣室は、天井が高く、壁際に棚がいくつも並んでいた。大理石の床が、素足に冷たかった。あちこちで、女たちの話し声と、布を畳む音が響いている。環首刀、短刀、革鞄、懐の護符を棚に置いていくことに、一瞬、指先が止まったが、番人が、入口に立っている。番人が男であることに少し驚いたが、周りの女たちが気にしていない風なので、「ウブなネンネじゃあるまいし」と、どこかで聞いたセリフをつぶやいて気にしないことにした。旅装を脱ぎ、畳んで棚に置いた。
女性専用の時間帯だと、入り口で確かめていた。おかげで、前を隠すこともなく浴室へ進んだ。
温浴室で、まず体を温めた。石の床に、裸足の裏がじんわりと熱かった。床の下を通る熱が、そのまま伝わってくるらしかった。座り込むと、じんわりと汗が滲み始める。天井は丸く高く、小さな明かり取りから、光の筋がいくつも落ちていた。周りには、数人の女たちが、思い思いの姿勢で座っていた。声を潜めた話し声が、湯気と一緒に立ち上っていた。
熱浴室に移ると、床の熱がさらに強くなった。足の裏だけでなく、壁からも、じんわりとした熱が伝わってくる。汗の量が一気に増した。息苦しさに近いものを覚えたが、少し慣れると、それも落ち着いた。天井近くの空気が、揺らいで見えるほどだった。石鹸というものが、まだこの時代にはない。近くにいた老いた女が、身振りで手順を示してくれた。真似て、小瓶の油を手のひらに取り、腕から順に塗り広げていく。全身に油が行き渡ると、湾曲した金属の器を渡された。肌かき器だった。
肌に押し当て、滑らせる。油の滑る感触に続いて、器の刃が肌の上を滑るたびに、汗と汚れが薄い筋になって落ちていくのが見えた。慣れない手順だったが、繰り返すうちに、腕の動きが自然になっていった。肩、腕、脚。順に、器を滑らせていった。背中の思うところに当たらずに手間取っていると、隣の老女が、何も言わずに器を取り、代わりに滑らせてくれた。礼を言うと、笑って頷いただけだった。お返しに老女の背中を擦ってやった。油と汗の匂いが、湯気の中で濃く漂っていた。
肩の強張りが、器を滑らせるたびに、少しずつ緩んでいくのが分かった。船の上で凝り固まっていた筋が、ほどけていく感触があった。浅かった呼吸が、いつの間にか深くなっていた。指先の感覚も、鈍さが薄れていった。長安を発ってから、これほど時間をかけて自分の体に触れたことはなかった。
湯気の向こうで、誰かが世間話をしている声がした。抑揚も言葉も違うのに、その調子には、覚えのある間があった。日本の温泉で、隣から聞こえていたおしゃべりと、同じ質のものだった。順番を待つ気配、子供を叱る声、湯桶の音。壁の向こうから響く水音の反響すら、記憶のどこかにある音と重なった。形は違っても、質感は覚えのあるものとして、体の方が先に受け取っていた。
冷水槽に、体を沈めた。天井が途切れ、小さな中庭のように空が覗いていた。日差しが、水面に細かく砕けて反射している。火照っていた肌が、一気に引き締まった。息が、短く、ついで長く漏れた。二度、三度、頬を手のひらで叩いてから、槽の縁に手をかけて立ち上がった。水滴が、腕を伝って落ちていった。
近くに積まれていた布を借り、体を拭った。粗い織りの布だったが、水気を吸う力は十分だった。しばらく、日の差す回廊の柱にもたれて立っていた。肌に残った熱が、少しずつ引いていく。周りを行き交う女たちの声が、遠くから聞こえるように和らいでいた。
胸に手を当てると、鼓動が、いつもよりゆっくりと打っていた。船の上で乱れていた呼吸の速さが、どこかへ紛れていた。柱の影と日向の境目に立ったまま、しばらく、それだけを確かめていた。
浴を終え、更衣室に戻ると、荷はそのままの場所にあった。手に取り、確かめてから、旅装をまとった。刀を腰に、革鞄を帯の後ろに戻し、懐の護符に指先で触れた。もう一度確かめて、外へ出た。
日差しが、洗い上がった肌に心地よかった。歩く足取りが、朝より軽くなっていた。腕を軽く振ってみると、昨日までの強張りが、嘘のように消えていた。
来た道とは、少し違う通りを選んで戻った。壁の一部に、まだ乾いていない漆喰が塗られている建物があった。足場を組んで、職人が数人、上の方で何かを叩いていた。石材を積んだ荷車が、道の端に列を作っていた。井戸端で聞いた祭りの話が、頭の隅で像を結んだ。
主人に教わった市場の近くまで戻る道すがら、露店の並びを目で追った。焼いた肉の匂い、干した魚の山、色とりどりの布。壺に山盛りの豆、編んだ籠に並ぶ卵、吊るされた干し葡萄の房。呼び売りの声が、あちこちから重なって聞こえてくる。子供たちが数人、露店の間を駆け抜けていった。湯気の立つテルモポリウムを見つけ、足を向けた。
カウンターの奥に、丸い穴の空いた石の台があり、そこにいくつもの壺が埋め込まれている。壺の中身は、まだ湯気を立てていた。中身を覗き込み、指をさして注文した。店の奥には、小さな木の卓がいくつか置かれ、いくつかは先客で埋まっていた。空いた卓を選び、腰を下ろした。
出てきたのは、パンと、オリーブと油、豆と野菜の煮込みだった。羊肉の切れ端が、少しだけ添えられている。無花果と乾酪、水で薄めた葡萄酒。器から立つ湯気が、卓の上でゆっくりとほどけていった。
匙を取り、煮込みを口に運んだ。魚醤の塩気が、舌の奥で強く広がった。一瞬、顔をしかめたが、すぐに慣れた。オリーブの渋みにも、もう驚かなかった。パンを千切り、豆をすくって黙々と口へ運んだ。羊肉は硬く、噛むほどに脂の味が広がった。乾酪は塩気が強く、無花果の甘さが、口の中をちょうどいい具合に締めくくった。誰かに勧める仕草も、笑いかける相手も、ここにはなかった。それで、今は構わないと思った。
隣の卓では、数人の男たちが、大きな声で何かを言い合っていた。笑い声が上がり、また静かになる。カウンターの向こうで、店主が次々と壺を出し入れしていた。湯気と、煮込みの匂いと、パンの焼ける匂いが、狭い店の中に満ちていた。
「どこから来たんだ」
店主が、通りすがりに声をかけてきた。
「アンティオキアの、もっと東から」
「遠いところから、よく来たな」
それだけの会話だった。皿の上のものを、あらかた平らげた。杯の底に残った葡萄酒を、飲み干した。喉から胃へ落ちていく感触に、酸味の後を追う仄かな甘さと熱さがあった。
満ちた腹と、湯上がりの体の軽さ。船を降りてからの二日、削られ続けていたものが、ようやく戻ってきた実感があった。卓に銭を置き、席を立った。日が西へ傾き始めていた。
宿への道を、来た時よりも確かな足取りでたどった。西日が、石畳の色を橙に染めていた。部屋に戻り、荷を隅に置いた。窓の外の喧騒が、少しずつ静かになっていった。誰かが灯りを点けたらしく、路地の壁に、淡い橙の光が揺れて映っていた。藁の寝台に体を横たえると、脹脛の張りは、もうほとんど残っていなかった。指先も、鈍さのない、いつもの感覚に戻っていた。目を閉じると、遠くから、まだ荷車の音が聞こえていた。




