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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第14章6節

シラクサを出てから、幾日か、凪《なぎ》に近い日が続いた。エテシア風が緩み始めていた。夏の終わりが近いのだと、風の弱まりだけで分かった。波の高さも、これまでより低くなっていた。


甲板での日々は、変わらなかった。朝、護符に触れる。船員の手つきを、目で追う。日が傾く頃、荷の位置を確かめる。夜、また護符に触れる。その繰り返しの中で、日数だけが、ゆっくりと積み上がっていった。船に乗ってから、すでに四十日ほどが過ぎていた。


ある朝、船縁《ふなべり》の男が、これまでとは違う声を上げた。


「オスティアだ」


いつもの調子とは、わずかに違っていた。周りの乗客たちの間にも、これまでにない張りが混じった。


水平線の先に見えてきたのは、白い陸影だけではなかった。川が、海に注ぎ込んでいるのが、遠目にも分かった。潮の色と、川の色が、沖合で緩やかに混ざり合っていた。


船が、速度を落とした。帆が畳まれ、櫂《かい》に持ち替えられる。港へ近づくにつれ、行き交う船の数が増えていった。大小の帆船、荷を積んだ艀《はしけ》、漁に出る小舟。これほど多くの船が集まる港を、これまで見たことがなかった。


甲板の上を、船員たちが慌ただしく行き来していた。錨の綱を確かめる者、舷側《げんそく》に張り出す板を運ぶ者。何度も見続けてきた手順の、最後の一回だった。桟橋に立つ人影が、次第に大きくなっていった。荷を積んだ荷車の列が、波止場に沿って並んでいるのが見えた。


「もやい、放れ」


声が飛び、綱が投げられた。桟橋の男たちが、それを受け取り、杭に巻きつけていく。船体が、大きく一度揺れてから、静止した。


板が渡された。列に並んだ。


板に、足を乗せた。渡り終えた。


地面に、足がついた。


周りでは、歓声に近い声がいくつも上がっていた。抱き合う家族連れ、地面に手をついて何かを呟く老人。四十日の航海を終えた喜びが、思い思いの形で弾けていた。その輪の外に立ったまま、しばらく、桟橋の喧騒を眺めていた。


潮の匂いに、川の匂いが混じっていた。石畳の色が、東で見てきたどれとも違った。灰色がかった、重い色合いの石だった。積み上げられた石材の隙間から、蔦《つた》のようなものが伸びている建物もあった。波止場の奥に、大きな倉らしき建物が、いくつも連なっていた。穀物を運び込む男たちの列が、その入口に吸い込まれていく。荷を運ぶ男たちの声が、辺りに響いていた。聞き慣れた言葉は、少なかった。抑揚が、これまで通ってきたどの土地とも違っていた。


しばらく、桟橋に立ったまま、周りを見回した。


長安《ちょうあん》、敦煌《とんこう》、楼蘭《ろうらん》、米蘭《ミーラン》、于闐《ホータン》、カシュガル、サマルカンド、ブハラ、メルブ、クテシフォン、アンティオキア——数えてきた都の名が、頭の中を順に流れた。その連なりの最後の一つの、入口に立っているという事実だけが、体を通り抜けていった。


荷を担ぎ直した。腰の刀の位置を、確かめた。桟橋の先、波止場の向こうに、街道らしき道が延びているのが見えた。


ローマには、まだ着いていない。



第十四章 了


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