第14章5節
水平線の染みが、次第に輪郭を持ち始めた。低い丘、白い建物、乾いた色の岩肌。マルタは、ロードスやクレタよりも、さらに小さな島だった。近づくにつれ、波止場に並んだ小舟の群れが、はっきりと見えてきた。
板が渡された。列に並び、順番を待った。
板に、足を乗せた。踏むたびに、板がわずかに沈んだ。一歩、また一歩。渡り終えた。
地面に、足がついた。
今度は、膝は、折れなかった。
石畳の硬さを、ただ、静かに受け取った。ロードスで頬を寄せたあの石畳とは、違う受け取り方だった。しばらく、その場に立ったまま、動かない地面の感触を確かめた。
見回すと、街の輪郭が、これまで通ってきたどの土地とも違っていた。柱が、丸かった。屋根が、平らだった。白く乾いた石を積んだ壁が、日差しを照り返している。市場に並ぶ壺の形も、すれ違う人々の顔の輪郭も、東で見てきたものと、根から違っていた。彫りの深い目鼻立ち、日に焼けた肌の色。言葉の抑揚も、また変わっていた。硬く短く切れる響きが、耳に新しかった。売られている品も、絹や香辛料の山ではなく、干した魚、素焼きの壺、粗く織った麻布だった。潮の匂いに、干した魚の匂いが混じり、市場の熱気がそこに重なっていた。
波止場では、荷を積んだ船が、何艘も並んでいた。積み荷を運ぶ男たちの間に混じり、荷運びを申し出た。船主の名を確かめ、麻袋を担いだ。重さは、ユーフラテス沿いで担いだ荷と変わらなかった。
日差しが、容赦なく肩に落ちた。麻袋を、船倉から荷車へ、荷車から蔵へ。同じ道を、何度も往復した。汗が、額から顎を伝って落ちた。息が上がるたびに、久しぶりに使う筋が、鈍く痛んだ。船酔いで削られた分の力が、まだ完全には戻っていないのが、担ぐたびに分かった。それでも、足は止まらなかった。
「その担ぎ方、この辺りの者じゃないな」
荷を積む男の一人が、通りすがりに声をかけてきた。
「東から来ました」
「東、ね」
それ以上は、聞かれなかった。まず荷を運び、それから日当を受け取る。
受け取った銭を、巾着に納めた。重さが、わずかに増した。この先の街の相場がどれほどか、見当もつかなかったが、無いよりは、はるかによかった。
数日後、船はシチリアのシラクサに寄港した。マルタよりも大きな港だった。石造りの神殿らしき建物が、丘の上に白く並んでいた。柱の連なりが、光を受けて輪郭を際立たせている。港に入る船の数も、これまでの寄港地の中で、一番多かった。行き交う言葉のどこにも、東で聞き慣れた響きはなかった。長安から、こんなにも遠くまで来たのだと、言葉の音だけが、静かに教えてきた。
板を渡った。今度も、膝は折れなかった。
丘に向かって、しばらく通りを歩いた。神殿の柱が、近づくほどに大きくなった。彫り込まれた模様の細かさに、目を止めた。長安の宮殿とも、クテシフォンで見た円屋根とも、まるで違う形の石の積み方だった。露店に並ぶ品も、東で見てきたものとは違っていた。艶のある絹の代わりに、素焼きの壺と、干した無花果の山。行き交う人々の装いも、布を体に巻きつける、簡素な形が多かった。
市場を抜けた先、小さな店先に、木の卓が並んでいた。日除けの布が、頭上でわずかに揺れている。空いた席に座り、木札を指さして注文した。
出てきたのは、丸い形をした白いチーズだった。上から、蜂蜜がとろりとかかっている。木の匙で崩すと、驚くほど柔らかかった。掬い、口に入れた。
塩気の後に、甘さが来た。舌の上で、チーズがほろりとほどけ、蜂蜜の粘りが、それを追いかけてくる。
オリーブの渋みとも、あの辛い煮込みとも、違う味だった。
「これは、初めて」
呟くと、店主が、それだけで満足そうに頷いた。匙を止める間もなく、次の一口へ手が伸びた。添えられた干し葡萄は、噛むほどに甘さが凝縮していき、殻付きの木の実は、香ばしさが後を引いた。小さな塩漬けの実にも手を伸ばすと、思いのほか強い酸味だった。顔をしかめると、隣の卓の男が、声を立てずに笑った。それでも、もう一粒、口に運んだ。悪くない味だった。地の葡萄酒を、少しもらって飲んでみた。薄めていない分、香りが強かった。皿の上のものを、気づけばあらかた平らげていた。
食べ終えると、卓に銭を置いた。店主が、何か一言二言、聞き取れない早口で言った。愛想笑いを返し、席を立った。
シラクサでも、波止場で荷運びを手伝った。神殿の白い柱を横目に、素焼きの壺を荷車に積み替える仕事だった。壺は思いのほか重く、抱え方に慣れるまで、何度か抱え直した。荷主が、笑いながら手本を見せてくれた。真似て抱え直すと、次からは崩れずに運べた。マルタでの分と合わせ、巾着はいくらか重くなった。ローマの相場は知らない。それでも、これだけあれば、着いてすぐに困ることはないだろうという見当はついた。大きな稼ぎではなかったが、探索の日数を、いくらか支えられるだけの余裕にはなるはずだった。
そういえば、九月だった。
タクラマカンで、干し杏と干し葡萄を齧った十九歳の夜を思い出した。焚き火もない、月明かりだけの夜だった。乾いた甘さが、口の中でいつまでも溶けずに残っていたのを、まだ覚えている。あれから、二年。
サマルカンドでは、アルダフシルとサムフルと共に、二十歳を祝った。杯を掲げたアルダフシルの声が、一瞬だけ耳の奥に蘇った。あれから、一年。
今年は、誰にも言わずに、一日が過ぎていった。
港の女に、水場を聞いた。
「そこの、井戸だよ」
答えが返ってきた。礼を言った。短いやり取りだったが、ここの言葉も、すんなりと形になった。
汲んだ水を飲む前に、水面に映った顔を、束の間見た。日に焼けた肌、伸びた髪。長安を発った頃の自分とは、輪郭がどこか違って見えた。
日が傾き始めた頃、桟橋の方へ戻った。老いた行商人の姿が、乗船の列になかった。
近くにいた船員に聞くと、あっさりと答えが返ってきた。
「あの爺さんなら、ここで降りたよ。息子の家があるとかで」
人混みの中に、麻袋を担いだ背中を探したが、もう見分けがつかなかった。桟橋の喧騒に、目を戻した。
荷を担ぎ直し、腰の刀と帯の後ろの革鞄の位置を確かめてから、板の方へ足を向けた。次の寄港地は、もうない。船は、このまま終点のオスティアへ向かう。
板を渡り、甲板に立った。もやいが解かれ、帆が上がっていく。神殿の白い柱が、少しずつ小さくなっていった。西の水平線に、日が傾き始めていた。




