第14章4節
ある朝、目が覚めても、胃は静かだった。
揺れは、昨日と同じだけあった。船体は同じように上下し、甲板は同じように傾いだ。ただ、体の中身が、その揺れに合わせて動いていた。
しばらく、横になったまま、その静けさを確かめた。込み上げてくるものは、なかった。
身を起こした。膝に、力が入った。
その日から、揺れは変わらないのに、体の方が変わっていった。船体が傾げば、重心も傾いだ。持ち上げられれば、膝が緩んだ。タクラマカンの砂を夜通し歩く足が育ったように、パミールの岩場で重心を読む足が育ったように、今度は、板の上で揺れに預ける体ができていった。
数日のうちに、吐き気は完全に消えた。配られる食事に、また手を伸ばすようになった。硬いパンを噛み、塩辛い魚を飲み込んだ。水も、戻さずに喉を通った。腹に何かが残る感触を、久しぶりに思い出した。
手の甲に、少しずつ張りが戻ってきた。げっそりとこけていた頬も、日を追うごとに目立たなくなっていった。
甲板での時間が、変わった。
船縁に凭れるだけだった日々が終わり、腰を下ろして周りを見る余裕が戻ってきた。船員たちの手つきを、また目で追った。縄を束ねる手、帆桁を確かめる足の運び、甲板の継ぎ目を裸足で渡る身のこなし。何日もかけて、同じ動きを見続けていた。潮に濡れた縄を、指の腹で確かめてから結ぶ癖。帆の膨らみ具合だけで、風向きの変化を読む目の動き。隊商の護衛や荷役とは、また違う手順の積み重ねだった。
商人たちの一角から、賽子を振る乾いた音が、また聞こえるようになった。笑い声が上がり、また静かになる。船室の陰では、あの低い祈りの文句が、変わらず続いていた。子供が甲板を駆け回る足音も、戻ってきた。母親の呼ぶ声が、追いかけていった。
老いた行商人が、隣に腰を下ろした。
「顔色が、戻ってきたな」
「ええ、少し」
「クレタで降りなかったんだって?その甲斐が、あったということだ」
「ここまで来て、また胃を揺らし直すのは、御免でしたので」
「賢い判断だ。若い連中は、そういう我慢がなかなかできん」
それだけの会話だったが、声を出すことに、以前ほどの負担はなかった。
甲板の隅に荷を広げ、環首刀を鞘から抜いた。刃に、うっすらと曇りが浮いていた。油布を取り出し、峰から刃元へ、拭っていった。曇りが、布の下で少しずつ落ちていく。続けて、短刀も同じように拭った。刃を光にかざし、曇りが取れたのを確かめてから、また鞘に納めた。
革鞄の中を整えるうち、指先がレーザーガンのハンドガードに触れた。傷の窪みが、指の腹に残った。銃を、また元の位置に戻した。
拭き終えた刀を腰に戻した。単調な航海の、暇つぶしのようなものだった。それでも、この手順を思い出せたこと自体が、体の内側で何かが戻った証だった。
懐の護符に、指先を触れた。冷たい石の感触は、いつもと同じだった。ただ、確かめる指の力が、以前より強くなっていた。
日が昇り、また沈む。その繰り返しの中に、型のようなものが戻ってきた。朝、護符に触れる。昼、船員の手つきを目で追う。日が傾く頃、荷の位置を確かめる。夜、また護符に触れてから目を閉じる。歩いて越えてきた道では当たり前だったその繰り返しが、板の上でも、少しずつ形を取り戻していった。
日中、甲板の縁に立ち、水面を見下ろした。これまでずっと、地面の先には「向こう側」があった。歩き続ければ、いつか着く場所が、目に見える形であった。この水には、それがなかった。立っているだけでは、水平線の先が見えない。青く光る面が、どこまでも同じ表情で続いているだけだった。
アンティオキアの浜辺で触れた海とは、また違う顔をしていた。あの時は、足の下に地面があった。今は、板一枚の下に、深さの分からない水があるだけだった。それでも、今は怖さとはどこか違う感触だった。知らないものが、そこにある。歩いて越える砂漠でも、登って越える山でもない。船で渡るしかない広さが、初めて体に馴染み始めていた。
風が、変わらず西へ吹き続けていた。帆は、いつも同じ角度で膨らんでいた。夜、甲板に横になると、星が見えるようになった。以前は見上げる気力もなかったその光を、今は瞼を開けたまま眺めていられた。流れる雲の切れ間から、星が現れては、また隠れた。
幾日か過ぎたある日、水平線の先に、灰色の染みのようなものが見えた。最初は、雲かとも思った。だが、染みは動かなかった。
「マルタだ」
船縁の男の声に、周りの乗客たちが、また身を起こし始めた。今度は、駆け寄るような慌ただしさはなかった。誰もが、落ち着いた足取りで、荷をまとめ始めていた。




