第14章3節
ロードスを出て、日が高くなると、風が変わった。
帆が孕む音が、心なしか大きくなった。舳先が波を切る音も、荒くなっていた。船員たちが、帆桁の縄を締め直している。エーゲ海の風は、アンティオキア沖よりも強いのだと、誰かが甲板で話していた。追い風が続けば、その分だけ早く進む。船足が上がるほど、甲板に立つ足に、揺れが戻ってくるのが分かった。夏の間だけ吹く、この安定した北風を、船員たちはエテシア風と呼んでいた。西へ向かう船には追い風だが、速さと引き換えに、揺れも増していた。
胃の奥に、あの違和感が戻ってきた。今度は、覚えのある違和感だった。
船縁に、また駆け寄った。
込み上げるものに、抗う術はなかった。吐いた。何度も、吐いた。石畳の上で戻ったはずの足の力は、板の上では、なんの役にも立たなかった。膝をつき、船縁に額を押し当てた。木の縁が、冷たく額に食い込んだ。
老いた行商人も、青白い顔をした商人も、同じように船縁に取りついていた。誰の顔にも、諦めに似た色が浮かんでいた。誰も、言葉を交わさなかった。交わす力もなかった。
船縁を掴む手の位置も、額を押し当てる角度も、体が覚えていた。同じ場所で、同じ姿勢を繰り返す。学んだのは、耐え方ではなく、繰り返し方だけだった。
二日目、揺れは変わらなかった。水を口に含んでは、戻した。立ち上がろうとするたび、膝から力が抜けた。座り込んだまま、荷にもたれる時間の方が長くなっていった。三日目も、四日目も、同じことの繰り返しだった。昼は焼けるような暑さで、夜は震えるほど冷えた。その落差だけが、日を数える手がかりだった。日数の感覚が、少しずつ薄れていった。頬がこけていくのが、指の感触で分かった。唇の端が、また乾いてひび割れ始めていた。護符にだけ、指先が触れた。冷たさが、いつもと同じだけ伝わった。それだけを確かめて、また目を閉じた。
配られる食事に、手を伸ばす者は少なかった。船員が、椀を無言で下げていく。もう驚く顔もしなかった。夜、星が出ても、見上げる気力はなかった。月の光が甲板を白く染めるのを、瞼の裏でだけ感じていた。甲板に座り込んだまま、幾日かが過ぎた。数える気力もなかった。夜と昼の境が、また曖昧になりかけていた。
ある朝、船縁の男が、また声を上げた。
「クレタだ」
顔を上げると、霞んだ先に、灰色の陸影があった。ロードスの時ほど、体に力は戻らなかった。それでも、目だけは、その輪郭を追った。
港が近づくにつれ、白い壁と、乾いた丘の稜線が、少しずつはっきりしていった。丘の斜面に、低い木の連なりが見えた。オリーブだろうと、見当をつけた。日差しが、ロードスよりも強く、白い壁に照り返していた。乗客たちが、荷をまとめ始めていた。声に、張りが戻っていた。
風向きが変わり、陸から吹く風が甲板まで届いた。焼いたパンらしい匂いが、かすかに混じっていた。老いた行商人が、鼻を動かし、小さく笑った。
「陸の匂いだ」
木札を検める船員が、通り過ぎざまに聞いてきた。
「上陸しないのか」
「はい」
それ以上は、言わなかった。
男は、それ以上聞かず、次の客の方へ向かった。
青白い顔をした商人の連れの若い男が、荷を担ぎながら、足を止めた。
「なぜ、降りない」
答えなかった。理由を口にすれば長くなる。言ったところで、伝わるとも思えなかったし、何よりそんなに長く話す気力がなかった。男は、しばらくこちらを見ていたが、それ以上は聞かず、板の方へ歩いていった。
老いた行商人が、荷を担ぎながら、こちらを一度だけ見た。何か言いかけて、やめた様子だった。そのまま、板の方へ歩いていった。
甲板の縁に立って、近づいてくる港を見た。白い壁、乾いた丘、桟橋に立つ人影。船が幾艘も、波止場に並んでいた。荷を担いだ男たちの列が、蟻のように行き来している。市場らしき一角から、色とりどりの布が、風にはためいているのが見えた。降りれば、また地面の固さがある。ロードスで受け取ったあの感触が、まだ体のどこかに残っていた。膝が、それを覚えていた。
膝に、まだ力はなかった。
板が渡された。客たちが、次々と甲板を離れていった。声が、桟橋の方から近づいては、また遠ざかった。荷を担いだ足音に、迷いはなかった。陸の匂いが、まだ鼻先に残っていた。
板の前に、立った。
一歩、踏み出しかけて、止めた。
降りれば、また今日のうちに戻らなければならない。板を渡り、石畳に触れ、また同じ板を渡り返す。その往復が、体に何を残すか、腹の底で分かっていた。ロードスの半日が、育ち始めた揺れへの耐性をどれだけ削ったか。今、まだ生々しく体に残っていた。
踵を返し、甲板の隅に戻った。
荷にもたれ、目を閉じた。桟橋の喧騒が、遠くから聞こえてきた。荷を運ぶ声、値を張り上げる声、鳥の声。降りていく足音が、板を鳴らすたびに、少しずつ数を減らしていった。
やがて、積み荷を運ぶ音だけが残った。甲板は、静かになった。日差しが、じりじりと甲板の板を焼いていた。目を閉じたまま、その熱だけを肌で受けていた。船底から、木材の軋む音だけが、時折聞こえてきた。舫い綱の先で、船体がゆっくりと揺れていた。空腹よりも、喉の渇きの方が強かった。水袋を探り、残りの水を、少しだけ口に含んだ。
その間も、船員たちは新しい積み荷を運び込んでいた。麻袋、素焼きの壺、羊の乳を詰めた革袋。板を、何度も行き来する足音が続いた。手を貸せる体ではなかった。ただ、その音を聞いていた。
しばらくして、また足音が戻ってきた。上陸していた客たちが、一人、また一人と乗り込んでくる。誰もが、頬に赤みを取り戻していた。老いた行商人も、水を汲んできたらしく、水袋を提げて戻ってきた。目が合うと、何も言わずに、隣に腰を下ろした。懐から、小さな乾し無花果をひとつ取り出し、黙って差し出してきた。
受け取り、口に含んだ。甘さが、舌の上でゆっくりとほどけた。噛まずに、そのまま溶かした。
問うことも、答えることもなかった。
甲板の向こうから、「もやい、放せ」の声が飛んだ。滑車が軋み、綱が甲板を這って引き上げられていく。帆桁に、男たちが取りついた。畳まれていた帆が、また一枚ずつほどけていく。クレタの港が、少しずつ遠ざかり始めた。
白い壁が、少しずつ小さくなっていった。降りなかった岸を、ただ目で追った。足の裏には、板の感触だけが残っていた。焼いたパンの匂いも、もう届かなかった。
甲板の下から、羊の鳴き声が、間延びして聞こえてきた。クレタで積み込まれた新しい荷の一部らしかった。
揺れが、また体に戻ってきた。今度は、覚悟していた分だけ、少しましだった。それでも、船縁に何度か駆け寄ることになった。胃には、もう戻すものもほとんど残っていなかった。
老いた行商人が、水袋を差し出してきた。
「無理にたくさんは飲むな。今は、それでいい」
礼を言う気力もなく、ただ小さく頷いた。
日が沈み、また昇った。揺れは、同じだけ続いていた。夜番の足音が、甲板を横切っては、また遠ざかっていった。船縁に凭れる回数だけが、少しずつ減っていった。
アンティオキアの波止場を離れてから、十日あまりが過ぎていた。夜の海に、月の光だけが、変わらず落ちていた。




