第14章2節
六日目の早朝、船縁の男が、声を上げた。
「ロードスだ」
その声だけで、周りの空気が変わった。船縁に凭れていた者たちが、次々と身を起こした。誰の顔にも、同じ色が浮かんでいた。霞んだ水平線の先に、灰色の陸影があった。目を凝らしても、まだ輪郭ははっきりしなかった。それでも、腕に力が戻ったような気がした。
港が近づくにつれ、白い壁の連なりが、少しずつ輪郭をはっきりさせていった。船内の誰もが、荷を抱えて船縁へ集まり始めた。青白い顔をした商人も、老いた行商人も、ふらつく足で立ち上がっていた。誰も彼も、我先にと桟橋の方へ体を向けていた。
接岸の縄が投げられ、板が渡された。列の後ろに並んだが、我慢できず、途中で肩を割って前へ出た。誰かに肘がぶつかったが、詫びる余裕もなかった。板に足を乗せた。踏むたびに、足首が頼りなく揺れた。それでも、渡り切った。
膝が、勝手に折れた。
石畳に、手をついた。そのまま、頬を寄せた。
石畳が、頬に当たった。固くて、動かなかった。
それが、ありがたかった。
顔を上げると、少し離れた場所で、老いた行商人も同じように地面に手をついていた。青白い顔をした商人は、桟橋の柱にもたれて座り込み、目を閉じていた。誰も彼も、動かない地面をただ全身で受け止めていた。声をかけ合う者は、誰もいなかった。
しばらく、そのままの姿勢でいた。頬に当たる石の冷たさが、少しずつ体の熱を吸っていくのが分かった。周りを行き交う足音が、遠くから聞こえた。誰かに踏まれそうになり、少しだけ体をずらしたが、それ以上は動く気にはなれなかった。
砂漠の砂も、山の岩も、いつも「動かないこと」を当たり前に足へ返してくれていた。歩けば、その分だけ前へ進んだ。倒れて眠っても、翌朝そこにあった。今、初めてその当たり前を、意識して受け取っていた。
どれくらい、そうしていただろうか。桟橋の喧騒が、少しずつ耳に戻ってきた。荷を運ぶ男たちの声、荷車の軋む音、遠くで鳴く鳥の声。石畳に爪を立てるようにして、体を起こした。壁際まで這うようにして移動し、背をもたせかけて座り直した。
そこでようやく、周りの景色が見えてきた。エーゲ海の要衝と聞いていた通り、大小の船が幾艘も停泊していた。積み荷を担いだ男たちが、絶え間なく行き交っている。市場らしき一角から、魚と香草の匂いが漂ってきた。すれ違う人々の装いも、これまでとはまた違う色をしていた。白い布を巻いた者、鮮やかな帯を締めた者。声の抑揚も、これまで通ってきたどの街とも違っていた。荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音、遠くの市場で誰かが値を張り上げる声、鴎の鳴き声。それぞれが、輪郭のはっきりしない断片のまま、耳を通り過ぎていった。
少し離れた井戸端で、水を汲んでいる女がいた。体を引きずるようにして、そちらへ近づいた。
「一杯、いただけますか」
女が、こちらの顔を見て、少し眉を上げた。それから何も言わず、椀に水を汲んで差し出した。受け取り、飲んだ。冷たい水が、喉から胃へ落ちていく感触があった。今度は、戻ってこなかった。
「船、長かったのかい」
「はい。少し、参りました」
「顔色が悪い。休んでいきな」
短くそう言うと、女はもう一杯汲んで手渡してくれた。礼を言って受け取ると、女は桶を担いで去っていった。
近くの屋台で、丸いパンを一つ買った。銭を数える指先に、まだ力は戻りきっていなかったが、数を間違えることはなかった。齧ると、しっかりとした歯ごたえが返ってきた。歯を押し返してくるその硬さが、妙に懐かしかった。パン売りの老人が、こちらの様子を見て、笑いながら声をかけてきた。
「船酔いか」
「はい。ひどく」
「陸に着けば、じきに治る。ここで、ゆっくりしていけ」
「ありがとうございます」
短いやり取りだったが、口の中で言葉がすんなりと形になった。揺れから解放された安堵が、声にわずかに滲んでいるのが、自分でも分かった。
長居はしなかった。次の出港までの短い間、地面の静止をただ味わった。壁に背をもたせかけたまま、石畳に座り込み、行き交う人々を眺めた。動かない場所に座っているという、それだけのことが、これほど心地よいとは思わなかった。
日が傾き始めた頃、桟橋の方から、出港を告げる声が聞こえてきた。石畳から尻を上げるのに、少しだけ躊躇いがあった。それでも、荷を背負い直し、腰の環首刀と帯の後ろの革鞄の位置を確かめてから、桟橋の方へ足を向けた。動かない地面の感触が、まだ足の裏に残っていた。




