第14章1節 地中海 247年8月 旅立ちから26ヶ月
板が、途切れた。
甲板に、足が乗った。
板の軋みが止み、代わりに厚い床板を踏む硬い感触が返ってきた。船縁に立つ男に、木札を見せた。男は角灯を近づけ、帳面と見比べてから、顎で奥を示した。
「隅が空いています。荷物は、そちらへどうぞ」
甲板の隅に、背負っていた荷を下ろした。環首刀は腰に、革鞄は帯の後ろに、いつも通り身につけたままにした。壁際に体を寄せ、荷を足元に置いた。座り込むと、板の目地の粗さが尻に伝わった。乗り込む客の列は、まだ途切れていなかった。旅装の一家、商人らしき身なりの男たち、荷を担いだ者。誰も彼も、狭い板の上を一人ずつ渡ってくる。渡り終えるたび、小さく息をつく音が聞こえた。板が軋むたびに、松明の灯りが水面で細く揺れた。
隣に、老いた行商人が腰を下ろした。麻袋を抱え、こちらを一瞥しただけで、それ以上は何も言わなかった。反対側には、母親に手を引かれた子供が座り、まだ眠そうな目を擦っていた。少し離れた場所では、身なりの良い商人たちが数人、荷の上に敷布を広げ、早くも卓のようなものを作っていた。船室は、彼らのような客のためのものらしく、甲板の客との間に、はっきりとした境があった。
船体は、これまで見たどの川船よりも大きかった。二本の太い帆柱が、まだ暗い空に向かって立っている。舷側には、会所で見た通りの船主の名が、大きく刻まれていた。船尾には見張り台があり、角灯を提げた男が、すでにそこへ登っていた。木の軋む音が、あちこちから絶えず聞こえていた。
甲板の下から、羊か山羊らしい鳴き声が、時折聞こえてきた。積み荷の中に、生きた家畜も混じっているようだった。
木札を検めた男が、通り過ぎざまに聞いてきた。
「行き先は」
「ローマまで」
「一人でか」
「はい」
それだけで、男は次の客の方へ向かった。詮索する様子はなかった。
東の空が、わずかに白み始めていた。
「もやい、放せ」
船尾から、声が飛んだ。滑車が軋み、太い綱が甲板を這って引き上げられていく。碇を巻き上げる音が、低く、長く続いた。男たちが、木の柄を押して回している。帆桁に、別の男たちが取りついた。畳まれていた帆が、一枚、また一枚とほどけていく。朝の薄い風を孕んで、布が大きく膨らんだ。帆の縁が、ばたばたと音を立ててから、静かになった。
船体が、ゆっくりと動いた。
岸が、離れていく。
松明の灯りが並んでいたアンティオキアの波止場が、少しずつ小さくなっていった。石畳を踏んで歩いてきた道、隊商について越えてきた草原、川、砂漠。長安を出てから続いてきた足の下の道が、今、初めて途切れていた。踏む場所は、もう地面ではなかった。板の下に、深さの分からない水があるだけだった。
甲板の縁に立って、しばらく岸を見ていた。街の輪郭が、朝靄に溶けていく。誰に呼ばれるでもなく、見えなくなるまでその場に立っていた。背負ってきたはずの重さが、足の裏から抜けていくような感覚があった。振り返って歩き出す道が、もうどこにもなかった。
陽が昇りきると、船は速さを増した。波を切る音が、規則正しく続くようになった。舳先に立つ者、船縁に寄りかかる者、荷の陰で丸くなる者。乗客たちは、それぞれの場所に落ち着いていった。子供が甲板を駆け回り、母親に袖を引かれていた。老いた行商人は、麻袋を枕にして、早くも目を閉じていた。
出港からしばらく、海は穏やかだった。船体はゆるやかに上下したが、それだけだった。甲板を踏む足に、違和感はなかった。水面は、朝の光を受けて白く光り、風は帆をゆるやかに膨らませ続けていた。遠ざかる岸の向こうに、丘の稜線が霞んで見えた。それも、やがて水平線の中に溶けていった。
船員たちの動きを、少しの間、目で追った。縄を束ねる手つき、帆桁を確かめる足の運び、甲板の継ぎ目を裸足で渡っていく身のこなし。隊商の護衛とも、荷役とも違う手順の積み重ねだった。滑車の軋む音、水を切る音、時折飛び交う短い号令。潮の匂いに、木材とタールの匂いが混じっていた。甲板の下からは、積み荷同士がぶつかる鈍い音が、波に合わせて規則正しく響いてきた。
岸を離れてしばらくは、白い鳥が幾羽か、船の後ろについてきていた。羽ばたきもせず、風に乗って滑るように追ってくる。だが、陸影が薄れるにつれ、一羽、また一羽と離れていき、やがて一羽もいなくなった。振り返っても、もう白い影は見えなかった。
商人たちの一角から、賽子を振る乾いた音が聞こえてきた。笑い声が上がり、また静かになった。船室の陰では、東の言葉とは違う抑揚で、誰かが低く祈りの文句のようなものを唱えていた。甲板の隅々に、それぞれの過ごし方があった。
風向きが変わるたび、甲板の下から漂う独特の匂いが鼻先を掠めた。積み荷の湿った木材、家畜の糞、垢じみた麻袋。潮の匂いだけではない、船という閉じた場所そのものの匂いだった。
昼近く、乾いたパンと塩漬けの魚が配られた。老いた行商人が、自分の分から一切れをちぎって差し出してきた。
「食べておいた方がいい。すぐに、食べられなくなるぞ」
意味を測りかねたが、礼を言って受け取った。魚は塩辛く、パンは硬かった。噛むほどに、水気が欲しくなった。
昼を過ぎても、揺れは同じ調子で続いていた。膝を折って座り、荷にもたれた。瞼が重くなり、うとうとと目を閉じた。近くで、誰かが乾いたパンを齧る音がした。遠くで、船員の一人が笛のような音を短く吹いた。時刻を知らせる合図らしかった。
半日ほど経った頃、何かが変わった。
最初は、胃の奥のかすかな違和感だった。気のせいだと思い、荷にもたれ直した。だが、違和感は引かなかった。むしろ、じわりと広がっていく。船体が上下するたび、その重さが持ち上がってくるのが分かった。額に、じっとりと汗が滲んだ。耳の奥で、低い音が鳴り始めた。視界の端が、わずかに滲んだ。
船縁に、駆け寄った。
込み上げてくるものを、抑えきれなかった。吐いた。何度も、吐いた。胃の中身がなくなっても、体は止まらなかった。空えずきだけが、繰り返し込み上げてきた。目の端に、涙が滲んだ。喉の奥が焼けるように痛んだ。腹の筋が、引き攣れて痛んだ。
船縁を掴む手に、力が入らなかった。
一度、立ち上がろうとした。膝に力を込めた瞬間、視界が大きく傾いだ。足元の板が、実際よりも大きく揺れているように感じられた。体を支えきれず、そのまま船縁に崩れ落ちた。もう一度、同じことを試したが、結果は同じだった。
タクラマカンの熱砂も、パミールの稀薄な空気も、カラクムの飢えも、越えてきた。足は動いた。だが、ここでは違った。這うことも、走ることも、通用しなかった。ただ、揺れに合わせて胃が持ち上がり、下がる。その繰り返しに、抗う術がなかった。
陸なら、走れた。ここでは、立つことさえできなかった。
口の中に、酸っぱい味だけが残った。目を閉じても、瞼の裏で世界が回り続けていた。額の汗が、こめかみを伝って落ちた。それでも、揺れそのものは止まらなかった。
近くを通りかかった船員が、ちらとこちらを見ただけで、そのまま行き過ぎた。慣れた様子だった。誰も、驚きも心配もしなかった。この光景が、この船では珍しくないのだと、その無関心だけで分かった。
甲板に座り込んだまま、何刻も過ぎた。水を口に含んでも、すぐに戻した。荷にもたれ、目を閉じていることしかできなかった。周りを見ると、同じように船縁に取りついている者が、あちこちにいた。母親に手を引かれていた子供も、小さな体を折って吐いていた。誰も、多くは話さなかった。それぞれが、それぞれの吐き気と向き合っていた。
日が傾き、暗くなった。夜の甲板は冷え、体の震えが止まらなくなった。荷を引き寄せ、身を丸めた。眠ったのかどうかも、判然としなかった。波の音だけが、絶えず続いていた。
二日目、目が覚めても、揺れは同じだった。むしろ、体の消耗とともに、揺れそのものがひどくなっていくように感じられた。船が大きく傾ぐたび、体が甲板の上を滑り、荷にぶつかって止まった。立ち上がろうとして、膝から力が抜け、荷の上に崩れた。近くで、誰かが低く呻いていた。子供の泣き声が、少しの間続いてから止んだ。老いた行商人が、水袋を差し出してくる者に、力なく手を振っていた。受け取る気力さえないようだった。
昼近く、また食事が配られたが、誰も手をつけなかった。船員が、椀を無言で下げていった。表情に、驚きはなかった。
日が高くなるにつれ、甲板の板が熱を持ち始めた。それでも、体の震えは止まらなかった。熱と寒さが、同時に体の中にあるようだった。一度だけ、水を口に含んでみた。舌の上を通っただけで、すぐに戻した。それきり、試すのをやめた。
三日目、船縁のそばに、いつも同じ顔ぶれが座り込んでいた。老いた行商人、青白い顔をした商人、その連れらしい若い男。誰の頬もこけ、目の下に濃い影ができていた。誰も、身なりを整える余裕などなかった。青白い顔をした商人の一人が、荷にもたれたまま、掠れた声で呟いた。
「陸に上がれるなら、海賊に捕まっても構わない」
否定も、肯定もしなかった。ただ、その言葉の意味だけは、腹の底で分かった。頷くことさえ、体力が要った。隣で、老いた行商人が、力のない笑いを漏らした。
「俺も、同じことを思っていたところだ」
それ以上、誰も言葉を継がなかった。三人とも、また船縁の方へ体を傾けた。
四日目、朝と夜の区別が、曖昧になり始めていた。眠っているのか、気を失っているのか、自分でも判然としなかった。船縁に凭れたまま、何度も意識が途切れた。目を開けるたび、周りの景色は同じだった。灰色の甲板、同じ顔ぶれ、同じ波の音。時だけが、輪郭を失って流れていった。
その日の夜だったか、翌日の明け方だったか、もう区別がつかなくなっていた頃。船縁に突っ伏したまま、頭の奥を何かがよぎった。
葵の手記の一文。
難破は、二度。
文字でしか知らなかったその一行が、今、腹の底に重さを持って落ちてきた。想像ではなかった。この揺れが、何日も続いた末に、船そのものが壊れることがある。板が裂け、水が入り、この海のどこかに沈んでいく。三十年、たった一人でそれを二度、生き延びた人間がいた。その果てに、何が起きるのか。考えかけたところで、また込み上げてくるものに、意識を引き戻された。それ以上、考える余力はなかった。
夜が来ても、揺れは止まなかった。
水すら、喉を通らなかった。口に含んでも、胃が受け付けなかった。唇の端が、乾いてひび割れているのが分かった。指先に、力が入らなくなっていた。腰の刀にも、帯の後ろの革鞄にも、手を伸ばす気力がなかった。いつもの型——刀を抜き、鞘に納め、銃を検め、また納める——その手順を、今夜もこなせなかった。手順を思い浮かべることさえ、遠かった。
ただ、懐の護符にだけ、指先が触れた。
冷たい石の感触が、指の腹に伝わった。それだけを確かめて、また目を閉じた。
雲の切れ間から、月の光が甲板に落ちていた。白く光る帯が、揺れるたびに形を変えた。見上げる気力もなく、瞼の裏でその明るさだけを感じていた。船体が軋み、波が舷側を叩く音が、闇の中で繰り返し続いていた。遠くで、誰かの呻き声がまだ続いていた。甲板の下から、家畜の低い鳴き声が、一度だけ聞こえて止んだ。夜番の船員の足音が、ゆっくりと甲板を横切り、また遠ざかっていった。




