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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第13章6節

出港の朝、まだ空が白む前に目が覚めた。


荷を、手早くまとめた。革鞄、環首刀《かんしゅとう》、短刀、護符。数えるまでもなく、いつもの位置にいつもの重さがあった。巾着は、船賃を払った分だけ、だいぶ軽くなっていた。


窓の外は、まだ暗かった。波の音だけが、いつもと変わらず聞こえていた。荷を背負い、部屋を出た。


女将に、鍵を返した。


「もう行くの」


「はい。お世話になりました」


「気をつけてね。海は、陸とは勝手が違う」


それだけの言葉で、宿を後にした。


通りには、誰もいなかった。石畳を踏む足音だけが、両側の壁に反響していた。市場の屋台は、すべて幕を下ろしていた。潮の匂いが、夜の間にいっそう濃くなっていた。冷えた空気が、頬に触れた。八月に入っても、夜明け前だけは、まだ肌寒さが残っていた。


波の音が、通りの先から絶えず聞こえていた。近づくほどに、音は大きくなった。


途中、三日間働いた倉の前を通り過ぎた。扉は、まだ閉まっていた。足を止めることなく、通り過ぎた。


波止場に着くと、すでに何人かが集まっていた。荷を担いだ男、旅装の一家、商人らしき身なりの数人。誰も、多くは話さなかった。松明の灯りが、水面に細く伸びていた。


目当ての船は、他より一回り大きかった。舷側に、会所で見た船主の名が刻まれている。甲板の上で、男たちが最後の荷を運び込んでいた。滑車の軋む音が、静かな波止場に響いていた。帆は、まだ畳まれたままだった。


しばらく、列の後ろで待った。順番が来るまで、他の乗船者を眺めていた。旅装の一家の父親が、幼い子供を抱き上げ、船を指さして何か話していた。子供は、まだ眠そうな顔をしていた。


甲板の上を、船員たちが行き来していた。縄を束ねる者、帆桁を確かめる者。誰もが、決まった動きを繰り返しているようだった。その様子を、しばらく見ていた。隊商の護衛や荷役とも、また違う手順の積み重ねだった。


東の空が、わずかに白み始めていた。列が、少しずつ進んだ。


船の脇に立つ男に、木札を差し出した。


「乗船者だな」


「はい」


男が、木札と帳面を見比べた。手にした角灯を、こちらの顔に近づけた。


「一人か」


「はい」


「荷は、それだけか」


「はい」


「よし。板を渡って、船縁の男に名を告げろ」


頷いて、木札を懐に戻した。革鞄、刀、短刀、護符をもう一度確かめた。


船の上から、船員の一人が声を張り上げた。


「乗る者は、急いでくれ。潮が変わる前に出す」


その声に押されるように、列の動きが速くなった。


板張りの桟橋が、船と岸を繋いでいた。幅は、大人一人がやっと歩ける程度だった。踏み出す前に、一度だけ立ち止まった。


背後を、振り返った。まだ暗いアンティオキアの街が、松明の灯りをいくつか灯して、静かに沈んでいた。歩いてきた道の続きが、その暗さの向こうにあった。長安《ちょうあん》、敦煌《とんこう》、楼蘭《ろうらん》、米蘭《ミーラン》、于闐《ホータン》、カシュガル、サマルカンド、ブハラ、メルブ、クテシフォン——通り過ぎてきた街の名が、頭の中を順に流れて、消えた。


前を、向いた。


足を、板に乗せた。


板が、軋《きし》んだ。足の下で、わずかに沈む感触があった。もう一歩。板の継ぎ目を踏むたび、下の水が揺れているのが伝わってきた。歩いてきた道の地面とは、まるで違う感触だった。


三歩目。水の揺れが、板を通して足の裏まで届いた。四歩目、五歩目。板の軋む音が、一定の調子で続いた。


そのまま、一歩ずつ、板を渡っていった。


第十三章 了


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