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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第13章4節

道の向こうに、光る帯が見えたのは、昼過ぎだった。


最初は、雲かと思った。近づくにつれ、それが動かないことに気づいた。丘を一つ越えると、視界いっぱいに、灰青色の広がりが現れた。


足が、止まった。


地平の果てまで、水だけが続いていた。タクラマカンの砂も、カラクムの黒砂も、地平まで途切れなかった。だが、あれは乾いていた。目の前にあるものは、光を受けて絶えず動いていた。波が、白く砕けては、また現れる。その繰り返しに、終わりがなかった。


パミールの稜線《りょうせん》で見た雲海とも、ザラフシャン川の流れとも、違った。川は流れる先があった。これには、先が見えなかった。


潮の匂いが、風に乗って流れてきた。乾いた土や草の匂いを押しのけて、鼻の奥にまとわりつく。その匂いに、体の方が先に反応した。深く息を吸い込んでいた。理由は、自分でもよく分からなかった。


波の音も、耳に馴染んでいた。寄せては引く、その繰り返しの調子に、聞き覚えがあった。長安を発ってから、二年。ユーラシアを歩いて渡ってきた間、いや、神奈川を出てから一度も耳にしなかった音だった。


「初めてか」


隣を歩いていた隊商の男が、こちらを見て言った。


「いえ……久しぶりです」


「久しぶり? 砂漠から来て、よく言うな」


「昔、少しだけ」


それ以上は説明しなかった。男も、それきり聞いてこなかった。


「大きいだろう」


「はい。大きいです」


短く答えたが、それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。丘を下りながら、何度も海の方へ目が戻った。近づくほどに、波の音が大きくなった。


隊商は、海沿いの道を南西へ折れ、小さな港町に立ち寄った。


町の造りは、これまで見たどの街とも違った。白く塗られた壁、平たい屋根、石畳の細い路地。水路の音の代わりに、絶え間ない波の音が、路地の奥にまで届いていた。市場には、干した魚や、見たことのない形の壺が並んでいた。空気には、潮と、干物と、何か発酵したものの匂いが混じっていた。


波止場には、網を広げて繕《つくろ》う漁師たちの姿があった。獲れたばかりらしい魚が、桶の中で跳ねていた。銀色の腹が、日を受けて何度も光った。しばらく、その動きを見ていた。陸で見てきたどの生き物とも違う動き方だった。


荷の受け渡しを済ませ、その晩は港近くの宿に泊まることになった。


夕食の卓に、料理が並んだ。銀色に光る魚の姿焼き、殻付きの牡蠣《かき》、茹でた白い身。


「食ったことないだろう」


隊商の男が、笑いながら言った。


「魚自体は、食べたことあります。ただ、久しぶりで」


匙で、白身を一切れすくった。口に運ぶと、見覚えのある淡さがあった。羊肉とも、狼の肉とも違う、遠い記憶の底にある味に近かった。


「懐かしい味です」


「懐かしい? どこで食ったんだ、こんなもん」


「昔、よく似た魚を」


それ以上は言わなかった。男は、少し不思議そうな顔をしたが、それきり深くは聞いてこなかった。


もう一口、口に運んだ。塩気の奥に、じんわりとした甘みがあった。


牡蠣を、隣の男が剥いて差し出した。


「これも食ってみろ」


受け取り、口に入れた。ぷりっとした歯ごたえの後、海の香りが一気に広がった。この歯ごたえにも、覚えがあった。


「これも、懐かしいです」


「気に入ったか」


「はい、すごく」


もう一つ、殻を剥いてもらい、口に運んだ。同じ歯ごたえと香りが、また広がった。噛むたびに、忘れていた感覚が少しずつ戻ってくるようだった。


魚の姿焼きにも、匙を伸ばした。皮の焼けた香ばしさの下に、また違う淡白な旨みがあった。骨の周りの身を、丁寧にほぐして口に運んだ。


「上手いもんだな、その食い方」


「昔は、よく食べてたので。体が覚えてるみたいです」


素直にそう言うと、卓を囲む男たちが笑った。


「これ、美味しいです」


牡蠣の一つを、隣の男の方へ差し出した。


「よかったら、どうぞ」


男が、少し驚いた顔をしてから、笑って受け取った。


「珍しいな、あんたが人に勧めるなんて」


「美味しいので」


短く答え、また魚に匙を伸ばした。卓の向かいに座っていた別の男が、笑いかけてきた。


「そんなに気に入ったか」


「はい。久しぶりに、こういうの食べました」


言いながら、自然と口の端が上がっていた。


別の皿に、茹でた貝が山盛りで出された。一つ、殻から身を外して口に入れると、また違う甘みがあった。


「これも美味しいです。全部、味が違うんですね」


「海のものは、種類ごとに全然違う。慣れると見ただけで分かるようになる」


「そんなものですか」


「そんなもんだ」


もう一つ、貝を口に運んだ。塩気と甘みの配分が、少しずつ体に馴染んでいくのが分かった。


赤く焼けた海老が、串に刺さって運ばれてきた。殻の間から白い身がのぞいている。見覚えのある形だった。


「剥いて食え」


言われた通り、殻を剥いて口に入れた。ぷりぷりとした弾力の後、甘みが強く舌に残った。


「これ、一番好きかもしれません」


「お、来たな」


隊商の男たちが、顔を見合わせて笑った。


「さっきまで貝が一番だと思ってなかったか」


「食べるたびに、一番が変わります」


正直にそう言うと、また笑いが起きた。串をもう一本手に取り、隣の男の分と自分の分を並べて置いた。


「一緒に食べましょう」


「気が利くな、今日は」


男が、笑いながら串を受け取った。


食事が進むにつれ、卓の会話も増えていった。魚の獲れる季節、港の相場、これから向かう先の話。聞かれれば答え、時には自分から一言、口を挟んだ。


「あんた、砂漠を歩いてきたんだろう。海と、どっちが怖い」


聞かれて、少し考えた。


「分かりません。砂漠は、乾いて人を殺します。海は……まだ、何も知らないので」


「まあ、そのうち分かる」


男が、意味ありげに笑った。何の意味かは、聞き返さなかった。


「アンティオキアも、魚はこんな感じですか」


「もっと種類がある。ここは、田舎の港だからな」


「楽しみです」


素直に、そう言えた。


食事を終え、外に出た。夜の海は、昼間とは違う音を立てていた。波が岸を叩く音が、規則正しく繰り返されていた。


浜辺まで、少し歩いた。暗闇の中、白い波頭だけが、繰り返し浮かび上がっては消えた。沖の方に、小さな明かりがいくつか揺れていた。夜漁の船だろうか。


しばらく、その音を聞きながら立っていた。海は、どこまで続いているのか、見当もつかなかった。タクラマカンにも、パミールにも、終わりがあった。歩けば、いつか向こう側に着いた。この水の広がりの向こうに何があるのか、ここに立っているだけでは、まるで分からなかった。


波打ち際に、そっと足を踏み入れてみた。冷たい水が、足首まで這い上がってきた。引く波に、砂が足の裏からさらわれる感触があった。踏ん張ろうとして、少しよろけた。


歩いてきた道は、いつも足の下に確かな地面があった。ここでは、立っているだけでも、地面の方が動いていくように感じられた。


指先で、懐の護符に触れた。冷たさは、いつもと変わらなかった。


宿に戻り、いつもの型をこなした。刀、銃、短刀。手順を終えても、まだ耳の奥に波の音が残っていた。


翌朝、宿を出ると、また海が見えた。朝の光を受けて、昨夜とは違う色に光っていた。青みが、昨夜よりも澄んで見えた。しばらく眺めてから、荷を背負い直した。


宿の女将が、干した魚をいくつか包んで渡してくれた。


「道中の食い物に。美味かっただろう」


「はい、とても」


「またおいで」


礼を言って、包みを荷に加えた。市壁の外れで、隊商の男に声をかけた。


「今日はどこまで」


「アンティオキアに向かう隊商を探すつもりです」


「そうか。気をつけてな」


礼を言って、隊商と別れた。歩き出すと、潮風が正面から吹きつけてきた。塩気を帯びた匂いを、深く吸い込んだ。西へ向かう足に、迷いはなかった。


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