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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第13章3節

クテシフォンを出て、北西へ向かう隊商を探した。会所ではなく、市壁《しへき》の外に立つ木札で見つけた。荷主は、ユーフラテス沿いにシリアまで行くという。


「護衛か、通訳か」


「どちらでも」


「言葉は、いくつ話せる」


「ソグド語、ペルシア語。あとは他にも少しずつ」


荷主が、値踏みするように見た。


「なら、荷の受け渡しで使ってもらう。日当は弾む」


それだけで、話はまとまった。翌朝、駱駝の列に加わった。


チグリスを離れると、しばらくは同じような耕地が続いた。数日して、別の川が見えてきた。ユーフラテスだった。チグリスより水面が広く、流れは緩やかだった。川沿いの道を、西へ向かってひたすら進んだ。


日を追うごとに、日差しはさらに強さを増していった。荷を担ぐ肩に、汗が絶えず伝った。夜、宿代を払うたびに巾着の重さを確かめる癖は、いつの間にか体に染みついていた。船賃には、まだ届いていなかった。それでも、日々の積み重ねだけは、確実に増えていた。


道中、幾度か隊商が入れ替わった。ある街で降り、次の街まで別の隊商に加わる。仕事の中身も少しずつ変わった。荷の検分、夜番、時には商談の席で言葉を通す役目も回ってきた。


ある夜番の最中、荷の隙間から小さな明かりが漏れているのに気づいた。近づくと、若い荷役の男が、こっそり火を熾《おこ》して暖を取っていた。


「消してください。火の粉が荷に飛びます」


短く言うと、男はばつが悪そうに火を消した。それだけのやり取りだった。翌朝、帳場にも報告しなかった。男も、それきり何も言わなかった。


「これで、いくらだと言っている」


荷主に聞かれ、相手の言葉を訳した。数字を伝えると、荷主が頷いた。


「もう少し値切れるか、聞いてくれ」


言われた通り伝えると、相手が渋い顔をした。少しのやり取りの末、値が下がった。荷主が、満足そうに頷いた。


「助かった。今日の分に色をつけとく」


簡単な会話だったが、日当が少し増えた。


川沿いの道は、単調に西へ続いた。日中の暑さは、クテシフォンよりさらに強くなっていた。日陰を選んで歩く隊商の列。影の少ない場所では誰も口を開かなくなった。


夜になると、風向きが変わった。川面を渡る風に、微かに違う匂いが混じるようになった。土と草だけの匂いではない、何か遠くから運ばれてくるような匂いだった。それが何なのか、まだ分からなかった。


ある街で、隊商の男から聞いた。


「もうすぐ、地中海の匂いがしてくる」


「まだ、海は見えないんですよね」


「ああ、まだ何日かかかる。だが、風が先に知らせてくる」


言葉の意味を、頭では理解した。だが、実感はまだ湧かなかった。


ユーフラテスを離れ、道はさらに西へ折れた。畑の作物が、また少しずつ変わっていった。麦だけでなく、見慣れない果樹の並木が、道の両脇に現れるようになった。低い木に、小さな実がびっしりとついている。


通り過ぎる街の造りも、少しずつ違って見えた。土を固めた壁だけでなく、白い石を積んだ建物が増えていく。ある街の広場で、丸い柱が並んで屋根を支えているのを見た。于闐でもカシュガルでもクテシフォンでも、見たことのない造りだった。足を止めたのは、一瞬だけだった。それでも、目に焼きついた。


野営の夕食で、その実が出された。塩に漬けられた、黒っぽい小粒の実だった。


「食ったことないだろう。オリーブだ。ここらの土地の実だ」


隊商の男に言われ、一つ手に取った。皮は、指先で軽く潰れるほど柔らかかった。口に入れ、噛んだ。


——なにこれ。


ピザに乗っていたのと、全然違う。


酸味と、強い渋みが、舌の上に広がった。思わず、顔をしかめた。


「渋いです、これ」


正直に言った。隊商の男たちが、声を上げて笑った。


「最初は、みんなそう言う」


「これ、そのまま食べるものなんですか」


「油を搾ることが多いな。実を食うのは、漬けたやつだけだ」


もう一度、口に入れてみた。同じ渋みが、また広がった。羊肉とも、香辛料とも、ナツメとも違う味だった。これまで齧ってきたどの食べ物とも、系統が違うと分かった。


「不思議な味ですね」


「慣れると、これがないと物足りなくなる」


隊商の男が、笑いながら言った。渋い顔のまま、もう一粒、口に運んだ。三度目も、同じように顔をしかめた。それでも、不思議と手が止まらなかった。


翌日の食事にも、オリーブが出た。今度は、油に浸したものだった。匂いを嗅いでから、口に入れた。実そのものより、渋みは和らいでいたが、独特の青臭さが鼻に抜けた。


「これも、渋いです」


「油はまだ慣れてないだけだ。そのうち分かる」


隊商の男が、また笑った。それ以上何も言わず、パンにオリーブ油をつけて齧った。羊肉の脂とも、香辛料の油とも違う、青く重い味だった。


夜、いつもの型をこなしながら、口の中にまだ残るオリーブの渋みを、舌の先で確かめた。乾いた砂漠の保存食とも、クテシフォンの刺激とも、まったく違う土地に足を踏み入れたことを、その渋みが静かに教えてくれた。


翌日から、道の両脇に並ぶ果樹の数が、目に見えて増えていった。風に運ばれてくる匂いも、日ごとに濃さを増していた。まだ、海そのものは見えなかった。ただ、確かに近づいているという感触だけが、足の裏と鼻の両方に、少しずつ積み重なっていった。


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