第13章2節
チグリスの水面が、日差しを受けて白く光っていた。岸に近づくにつれ、水の匂いが濃くなった。カラクムの埋まった水路とも、メルブの張り巡らされた水路とも違う、大河の匂いだった。
対岸に、都が見えた。
城壁の連なりは、メルブのそれよりさらに幾重にも重なっていた。壁の向こうに、丸い屋根の建物が頭を出していた。見たことのない形の屋根だった。天に向かって膨らむような曲面が、陽光に陰影を作っている。
「あれが、皇宮だ」
隣を歩く隊商の男が、顎で示した。
「大きいですね」
それだけ返した。それ以上、言葉は出てこなかった。
橋の上から見下ろすと、川面を大小の舟が行き交っていた。荷を積んだ平底の舟、人を乗せた細長い舟。数えるのをあきらめるほどの数だった。舟の行き来する音、水を叩く櫂の音が、橋の下から絶え間なく上ってきた。
橋を渡り、城門をくぐった。門の内側には、槍を持った衛兵が何人も並んでいた。旅装を検められ、荷を開かされた。何度目かの検分に、慣れた手つきで応じた。刀については、護衛の証を見せると、それ以上聞かれなかった。
城内は、于闐やサマルカンドとも違う密度だった。石造りの建物が高く、通りは石畳で舗装されている。荷車の音が、砂の上とは違う硬い響きを立てていた。行き交う人々の装いも、これまでの街より色が濃かった。染めた布、金の縁取り、見たことのない意匠の帯。
通りの奥、広場に面した一角に、火を絶やさず焚き続ける祭壇があった。サマルカンドで見た神殿の火より、さらに大きく、番人らしき人影が周りを囲んでいた。
隊商は、市壁の内側で解散した。荷主から日当を受け取り、頭を下げて別れた。
一人になって、通りを歩いた。カシュガルやサマルカンドで感じた圧倒とは、質の違う感触があった。あのときは、情報量の多さに輪郭が溶けかけた。今は、違った。
長安を発ってから、二年近く。敦煌、楼蘭、米蘭、于闐、カシュガル、パミール、サマルカンド、ブハラ、メルブ。数えてきた都の名が、頭の中を順に通り過ぎた。ここまで歩いてきた道のりが、初めてこの都の壮麗さを通して、体を通り抜けた気がした。
宿を探し、水路沿いの小さな一軒に部屋を取った。荷を下ろし、旅装のまま、日払いの仕事を探しに出た。倉の並ぶ一角で、荷運びの張り紙を見つけ、二日だけの契約を結んだ。
「刀、持ったままか」
帳場の男が、腰の環首刀に目をやって言った。
「邪魔でしたら、外します」
「いや、構わん。荷運びなら、むしろ心強い」
言葉のやり取りは、それだけで済んだ。翌朝から、倉の荷運びに入った。木箱を担ぎ、棚まで運ぶ。腕にかかる重さも、担ぎ方も、于闐やメルブで覚えたものと同じだった。日当を受け取り、袋に足した。
仕事を終えた昼、市場を歩いた。
これまで見たどの市場よりも、並ぶ品が多かった。染めた布、細工の施された金物、香油の壺、見たことのない形の果実。声を張り上げる商人の数も、于闐やサマルカンドとは桁が違った。歩くだけで、耳と鼻が絶えず何かを拾い続けた。
屋台の一つから、強い匂いが漂ってきた。これまで嗅いだことのない、鼻の奥まで届く刺激臭だった。近づくと、鍋の中で肉と何かの香辛料が煮込まれていた。
「食うか」
店主が、こちらを見て声をかけてきた。
「はい」
椀を受け取った。湯気とともに、さらに強く匂いが立った。一口、口に運んだ。
喉の奥が、かっと熱くなった。舌の上で、これまで知らなかった痺れが広がった。
「っ……」
咳が出た。目の端に、涙が滲んだ。
店主が、笑った。
「辛いか」
「辛いです」
短く答えた。もう一口、口に運んだ。同じ熱さが、また舌の上に広がった。汗が、額から一筋流れた。
「美味い、だろう」
聞かれて、少し考えた。辛さの向こうに、羊肉とは違う旨みがあった。
「美味しいです。辛いけど」
店主が、また笑った。何か言葉を返そうとして、やめた。それ以上のことは、うまく言葉にならなかった。椀の中身を、最後まで食べた。舌の痺れは、なかなか引かなかった。
食べ終えて、水路の水で口をすすいだ。冷たさが、舌の熱をわずかに和らげた。
宿へ戻る道すがら、市場の喧騒を、もう一度受け止め直した。壮麗な宮殿、石畳の音、辛い料理。どれもが、これまで通ってきた乾いた保存食と羊肉の道とは、明らかに違う種類の刺激だった。
驚きはあった。だが、驚きの質は、于闐で初めて玉の工房街を見たときや、カシュガルで情報量に溶けかけたときとも違った。それらは、通過点だった。これまで歩いてきた道の、西の果てに近づいている——そういう静けさが、驚きの底にあった。
宿の部屋に戻り、荷を下ろした。窓の外に、チグリスの水音が微かに届いていた。舌の痺れは、まだ少し残っていた。
翌日も、同じ屋台に寄った。店主が、こちらを見て笑った。
「また来たか」
「美味しかったので」
「そりゃいい」
椀を受け取り、また食べた。二度目は、一度目ほど咳き込まなかった。それでも、舌の熱さには変わりがなかった。食べ終えて、懐の巾着に手を触れた。二日分の日当が、まだそこにあった。
荷運びの契約が終わった。宿を払い、水路沿いの道を歩いて、市壁の外へ出た。次は、北西だった。ユーフラテスに沿って、シリアへ。地図はなかったが、方角だけは、頭の中にはっきりと刻まれていた。




