第13章1節 メルブ~アンティオキア 247年5月 旅立ちから23ヶ月
倉の主人に、辞める旨を伝えた。
「もう行くのか」
「はい。西へ」
主人は、それだけ聞いて頷いた。引き止める言葉はなかった。最後の日当を受け取り、袋に足した。数えて、口を結んだ。まだ船賃には遠かったが、増えた分だけ確かに重かった。その重さを確かめたのは、それきりだった。
宿を払い、荷を背負い直した。環首刀、革鞄の中の銃と短刀、懐の白玉護符。いつもの位置に、いつもの重さがあった。
水路沿いの掲示板で、西へ向かう隊商の護衛を求める張り紙を見つけた。荷主の名を確かめ、声をかけた。
「歳は」
「二十です」
「一人か」
「はい」
「その刀、使えるのか」
「使えます」
男は、それ以上聞かず、帳面に何か書きつけた。翌朝、まだ暗いうちに、駱駝の列に加わった。
城門を出ると、水の音は少しずつ後ろへ退いていった。かわりに、乾いた風の匂いが強くなった。振り返ると、多層の城壁が朝靄の中に霞んでいた。数えかけてやめた壁の層の数は、結局最後まで分からないままだった。
草原が、しばらく続いた。丈の低い草を、風が一方向に撫でていく。踏む足の感触が、メルブの湿った土から、また乾いた締まりへ戻っていった。日の高い時間は肌が焼けるほどの熱を持ち、日が落ちると急に肌寒くなった。夏の始まりが、昼と夜の落差ではっきりと分かった。
数日ごとに、隊商の顔ぶれが変わった。ある街で降ろされ、次の街まで別の隊商の護衛に加わる。荷を検め、夜番に立ち、日当を受け取り、また次の隊を探す。
「そこ、頼む」
「分かりました」
「異状は」
「ありません」
また一日が始まり、終わった。乗り換えるたびに、同じやり取りが繰り返された。何度目かの街で、荷主の一人に「あんた、どこの生まれだ」と聞かれ、「東の、ずっと遠くです」とだけ答えた。それ以上は聞かれなかった。
ニサを過ぎ、ヘカトンピュロスを過ぎた。壁の色も、市場の並べ方も、通り過ぎるたびにわずかに違ったが、立ち止まって確かめることはしなかった。まず荷、次に日当、それから次の隊。その順番だけが、体に染みついていた。
途中、川幅の広い流れを渡ることがあった。橋はなく、平たい筏に駱駝ごと乗せられた。水面が揺れるたび、荷紐を握る手に力が入った。渡り終えると、筏の男が銭を求めてきた。隊長が懐から小さな一枚を渡すと、男は数えもせずに懐へしまった。反対岸に上がると、土の質がまた変わっていた。踏むと、少し粘る感触があった。
草原が、少しずつ畑に変わっていった。水路が細かく張り巡らされ、麦の穂が風に揺れる。羊の群れの代わりに、鋤を引く牛の姿が増えた。土の匂いが変わった——乾いた砂の匂いの下に、耕された土の湿りが混じるようになった。
隊商の顔立ちも、変わっていった。ソグド系の彫りの深さから、また少し違う輪郭へ。鼻筋の高さ、目の色、髭の生やし方。市場ですれ違う顔の並びが、いつの間にか入れ替わっていた。
耳に入る言葉も、変わった。ソグド語の響きが薄れ、聞き慣れないペルシア語の抑揚が増えていく。何を言っているかは、いつものように頭の中にそのまま入ってきた。ただ、音の高低の付き方だけが、耳に新しかった。
ある晩、隊商の焚き火で、軽く干したナツメを配られた。手に取ると、于闐で食べたものより、ずっしりと重かった。齧ると、皮の下から果肉がねっとりと崩れた。
——甘い。
思ったより、水気がある。
于闐からずっと、干し杏や干しナツメを齧ってきた。あれは、噛むほどに水分が抜けていく乾いた甘さだった。これは違った。噛むたびに、まだ果汁が残っている。指先に、べたつく感触が残った。
隣に座っていた男が、こちらを見て言った。
「初めてか」
「はい」
「この辺りじゃ、腹が減ったらまずこれだ」
もう一つ、口に入れた。同じ甘さが、同じように広がった。
翌朝、また別の隊商に乗り換えた。荷役として、駱駝の背に麻袋を積み上げる。腕に鈍い張りが溜まる感触は、于闐でもカシュガルでも覚えのあるものだった。
ひと月が過ぎた頃、乗り換えた隊商の数を、頭の中で数えかけて途中でやめた。数えるまでもなく、どの街も似た手順で通り過ぎていった。荷を検め、夜番に立ち、日当を受け取る。それだけの反復に、体はとうに慣れていた。
夜番の最中、荷の陰で物音がしたことが、一度だけあった。刀の柄に手をかけて近づくと、逃げ込んだ野犬が一匹、荷の隙間から飛び出してきただけだった。それだけを確かめて、また元の場所に戻った。翌朝、そのことを誰かに話すこともなかった。
日が経つにつれ、耕地の密度が増していった。畑と畑の間隔が狭くなり、水路の数も増える。遠くに、土色の壁が霞んで見える街が、以前より頻繁に現れるようになった。
道そのものも、変わっていった。踏み固められた轍の幅が広くなり、行き交う荷車の数も増えていく。すれ違う隊商の規模も、于闐やサマルカンドで見たものより一回り大きかった。荷の積み方、駱駝の連ね方、護衛の人数。どれもが、これから向かう先の大きさを、先に伝えてきた。
ある街で乗り換えた隊商の荷主が、駱駝の腹を確かめながら言った。
「次はクテシフォンまで乗せてやる。長丁場だ、荷を減らせるならそうしとけ」
「これで十分です」
「そうか。ならいい」
荷主は、それ以上何も聞かず、次の駱駝へ移っていった。
護衛の合間、隊商の男たちの話し声から、行き先の名がたびたび聞こえてきた。
「クテシフォンまで、あとどれくらいだ」
「この調子なら、十日とかからんだろう」
聞くともなく、耳に入れた。指を折って数えることはしなかった。数えなくても、距離の縮まり方は、足の裏がすでに覚えていた。
夜、野営の焚き火から少し離れた場所で、いつもの型をこなした。環首刀の柄を握り、鞘を払い、納める。銃の安全装置を指で確かめ、革鞄に戻す。短刀の刃を検め、また納める。手の感覚を確かめてから、横になった。
草原から農耕地帯へ。ソグド系の顔からペルシア系の顔へ。言葉の響きが変わり、食べるものが変わった。絹の道の東半分を、いつの間にか通り過ぎていた。そのことに、特別な感慨はなかった。ただ、足の裏と鼻と耳が、少しずつ違う土地へ入ったことを、先に知らせていた。
日差しは、日を追うごとに強さを増していった。正午近くになると、影の輪郭がほとんど消える。荷役の合間、額を伝う汗が目に染みることが増えた。夜になっても、地面に残った熱がなかなか引かなかった。カラクムの夜の冷え込みとは、また違う暑さの残り方だった。
遠くの地平に、川の匂いを孕んだ風が混じり始めた頃、隊商の男が言った。
「もうすぐだ。チグリスが見えてくる」
目を細めて、地平の先を見た。まだ、川そのものは見えなかった。ただ、空気の湿り方だけが、確かにそれまでと違っていた。




