第12章6節
夜、宿の一室で、就寝前の型を終えた。刀、銃、短刀。いつもの手順を終えても、まだ眠気は来なかった。
窓の外の水路の音を聞きながら、しばらく寝台に腰掛けていた。それから、荷の底から手記を取り出した。
高保存性の素材でできた手帳は、旅の間じゅう傷一つ増えなかった。表紙を開くと、紙の匂いはしなかった。長安の石函で最初に開いたときと、変わらない匂いのなさだった。カラクムの砂に埋もれても、賊の刃にさらされても、この手帳だけは無傷のままだった。
しばらく、開いていなかった。開かなくても、中身はすでに頭の中に流れ込んでいる。それでも、指で文字をなぞりたくなる夜が、時々あった。今夜は、そういう夜だった。
最初の数ページは、ボールペンの筆跡だった。角の取れた、現代の文字。実験のこと、時の狭間に落ちたときのこと、邪馬台国での日々のこと。神託の一文も、そこにあった。西方の大秦の都まで行け。そこで門が開く。家族の待つ未来へ帰れるだろう。文字の圧が、まだ強かった。迷いのない筆致だった。
ページを繰る指が、ある箇所で止まった。
筆跡が、変わっていた。ボールペンから、毛筆に。前の行までは、角の取れたボールペンの文字。次の行から、掠れの混じる毛筆の文字。何の前触れもなく、唐突に変わっていた。
紙の上を、指の腹でなぞった。ボールペンの跡は、紙にわずかにへこんでいた。毛筆の墨は、逆にほんの少し盛り上がっていた。感触の違いだけで、境目が分かった。
理由は、どこにも書かれていなかった。三十年という歳月の重さだけが、その唐突さの中に残っていた。
難破の記述があった。詐欺に遭ったこと。売られ、逃げたこと。何度も繰り返されるその種の記述を、以前は途中で目を逸らしていた。今夜は、最後まで目で追った。文字の圧は、少しずつ弱くなっていった。それでも、途切れることはなかった。
三十年、という数字が、何度も出てきた。三十年、誰とも心を通わせられなかった、という一文もあった。頭の中で、自分の日数と並べてみた。長安を発ってから、二十三ヶ月と少し。桁が、まるで違った。それでも、三日、十日、二十日と数えてきた自分の日々が、三十年という数字の中の、ごく短い断片に重なって見えた気がした。
指を、そのまま先へ滑らせた。
途中のページに、家族のことが書かれた箇所があった。夫のこと、娘のこと、両親のこと。何十年経っても薄れない、と。
それは違うページにも繰り返し書かれていた。家族の顔を忘れないよう、何度も書いたのだろうか。
自分の両親の顔を、思い浮かべようとした。すぐに浮かんだ。まだ、薄れてはいなかった。それだけを確かめて、指を先へ進めた。
最後のページまで、めくった。
そこに書かれた一文は、もう何十回と読んだ。それでも、今夜も同じように、目で追った。
——もしこの手記が未来の誰かの手に渡ったら、私のことを家族に伝えてほしい。葵は、ずっとあなたたちを愛していたと。三十年もの間、決して諦めなかったと。
指を、その文字の上に置いた。墨の凹凸が、指の腹にわずかに触れた。
ローマへ行けば、門が開く。家族の待つ未来へ帰れる。神託の言葉を、頭の中でもう一度なぞった。何度なぞっても、その先にあるものの形は、見えなかった。
窓の外に、水路の音が続いていた。旅立ちから、もうすぐ二年になる。指を折って数えるまでもなく、月日はすでに頭に入っていた。長安を発って、二十三ヶ月と少し。ローマまでの残りの距離を、頭の中に広げてみた。クテシフォンを越え、アンティオキアを越え、海を越えた先。そこに、門はあるのか。あるとして、それはどういう形をしているのか。
葵は、ローマに辿り着けなかった。長安の路地裏で力尽きた。私も、まだ辿り着いていない。辿り着いた先に何があるか、神託が本当だったのかどうかさえ、確かめる術がない。
門が本当にあるのか。あったとして、開いた先に何があるのか。家族の待つ未来に、本当に戻れるのか。それとも、葵と同じように、辿り着いた先で何も見つからないのか。
問いは、いくつも浮かんだ。答えは、一つも出なかった。
出るはずがないことも、分かっていた。手記を閉じ、布に包み直した。荷の底へ、いつもの場所へ戻した。
寝台に横たわり、灯りを消した。窓の外の水路の音は、変わらず続いていた。目を閉じても、しばらく眠気は来なかった。
第十二章 了




