第12章5節
休みの日だった。
倉の主人が「たまには休め」と言った。護衛が二人がかりで数日回せると分かってからは、そういう日が月に何度か挟まれるようになっていた。
朝、いつもより遅く起きた。起床後の型の練習を済ませて、市場を歩いた。買うものは、特になかった。ただ、体を休めながら、街の音を聞いていた。
水路の音、露店の呼び込み、驢馬の鈴。倉の中の静けさとは違う、生活の音だった。しばらく歩くうち、多層の城壁の一角が見えるところまで来た。到着したばかりの日に数えかけて途中でやめた壁の層を、今度はゆっくり眺めた。三重目の向こうに、まだ壁の影があった。四重目があるのかどうかは、結局、分からなかった。
水路沿いの露店の間を抜けたところに、干した果物を並べる店がある。何度か寄った店だ。杏の粒を指差し、店主に声をかけた。
「これ、どこの産?」
「南の山の方だよ。今年は出来がいい」
「じゃあ、味見していい?」
店主が、渋い顔をしながらも、一粒差し出した。口に含むと、甘みが濃かった。
「いいね。少し分けてもらおうかな」
「相変わらず、女ひとりでよく食うな」
「歩く仕事してるから」
店主が笑い、袋に多めに詰めてくれた。礼を言って、その場を離れた。
しばらく歩くと、小さな泣き声が聞こえた。
五、六歳くらいの少女が、露店の陰にしゃがみ込んでいた。周りを見回しても、付き添いらしい大人の姿はなかった。露店の主人たちは、それぞれの客の相手で忙しく、気づいていないようだった。
近づいて、しゃがんだ。
「どうしたの」
少女が、顔を上げた。頬に、涙の跡があった。しゃくり上げながら、途切れ途切れに答えた。母親と市場に来て、はぐれてしまったという。
袖で、少女の頬を軽く拭った。革の水袋の紐を解き、両手で支えるようにして、口元へ差し出した。傾ける角度に、迷いがなかった。
「まず、これ飲んで」
少女が、少し口をつけた。喉を鳴らして飲むと、しゃくり上げる間隔が、少しずつ長くなっていった。
「どのあたりではぐれたか、覚えてる?」
少女は、水路の橋の方を指した。声は、まだ震えていた。
「じゃあ、そっちを一緒に見に行こうか。歩ける?」
少女が、小さく頷いた。
立ち上がらせようとして、少女の足がふらついているのに気づいた。しゃがんだまま、少女の膝と足首に、手早く触れた。怪我はなさそうだった。ただ、長く座り込んでいたせいで、足が痺れているだけらしかった。
「少し、こうやって足踏みしてみて」
言われた通り、少女がその場で足踏みをした。しばらくすると、痺れが引いたのか、しっかりと立てるようになった。
「よし、行こう」
橋の方へ、少女の手を引いて歩いた。橋の袂で、露店の主人に声をかけた。
「この子の母親、見ませんでしたか。この辺りではぐれたそうです」
「さあ、見てないな」露店の主人は、荷の整理に忙しく、顔も上げなかった。
「じゃあ、隣の店にも聞いてみます」
隣の店主は、少し面倒くさそうな顔をしたが、少女の泣き腫らした目を見て、態度を変えた。
「はぐれたのか、そりゃ大変だ。こっちの方角は見てないな。あっちの布屋あたりを聞いてみるといい」
「ありがとうございます」
布屋の主人にも、同じことを聞いた。
「子供を探して騒いでた女なら、さっき見たよ。えらい剣幕でな」
「どっちに行きました」
「あっちだ。もう遠くないと思うぞ」主人が、指を差しながらにやりと笑った。「お前さんの子か」
「違います。拾っただけです」
「拾ったって言い方はどうかと思うがな」
主人が笑った。私も、少しだけ口の端を上げた。それ以上は続けず、少女の手を引いて歩き出した。
「お母さん、見つかったら、何て言う? 怒られそう?」
少女が、少しだけ笑った。
「怒られると思う」
「じゃあ、先に謝る練習しとく? はぐれてごめんなさい、って」
「はぐれてごめんなさい」
少女が繰り返した。声が、さっきより落ち着いていた。
「うん、上手。それだけ言えれば、お母さんもすぐ許してくれるよ、たぶん」
「たぶん?」
「私が約束はできないから」
少女が、少しだけ笑った。歩きながら、干した肉の匂いのする屋台の前を通った。少女の視線が、一瞬そちらへ流れた。気づいたが、何も買わなかった。今は、それどころではなかった。
角を曲がったところで、女が一人、必死な顔で人混みを見回しているのが見えた。少女が、先に気づいて声を上げた。
「お母さん!」
女が振り返り、少女に駆け寄った。抱きしめて、何度も名を呼んだ。それから、こちらに気づいて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、何とお礼を言えばいいか」
女が、懐から小さな銭を取り出そうとした。
「いえ、そういうのは結構です。見つかってよかったです。この子、思ったよりしっかりしてますよ。足踏みの練習、すぐできてました」
女が、少し戸惑ったように笑った。私はそれ以上何も言わず、懐から布袋を取り出した。さっき買ったばかりの干し杏が、まだたっぷり残っていた。
一掴み、少女の手のひらに乗せた。
「はぐれても、これ食べて待ってれば大丈夫。今度からね」
名前は、聞かなかった。少女も、聞いてこなかった。ただ、干し杏を握りしめて、小さく頷いた。
少女の頭に、軽く手を乗せた。撫でるというより、ぽんと一度置いただけの、ぎこちない仕草だった。少女が、くすぐったそうに首をすくめた。
女が、もう一度頭を下げようとするのを、手のひらで軽く制した。
「気にしないでください。それより、はぐれないように、しっかり手を繋いでおいてください」
「はい、本当にありがとうございます」
親子が、人混みの向こうへ歩いていくのを、少しだけ見送った。少女が、一度だけ振り返って、干し杏を掲げるように見せた。私は、小さく手を上げて応えた。
水袋の口を、結び直した。少女の頭に置いた手のひらに、まだ柔らかい髪の感触が残っていた。特に意味のある感触ではなかった。ただ、しばらく消えなかった。
歩き出しながら、懐の奥に触れた。白玉の護符が、いつもの位置で、いつもの重さのまま、そこにあった。指先で、表面の浅い線をなぞった。師傅の不自由な手が彫った線だった。
市場の喧騒に紛れて、歩き続けた。特に、何かを考えたわけではなかった。ただ、足取りが、来たときより軽かった。倉に戻る道すがら、干し杏の残りを数えた。ずいぶん少なくなっていた。それでも、買い足せばいい話だった。袋の重さを気にする癖が、その計算だけは、変わらず続いていた。




