第12章2節
朝、水路の音で目が覚めた。窓の外はまだ薄暗かったが、下の階からは、もう椀のぶつかる音と話し声が響いていた。
身支度を整え、階下に降りた。卓がいくつか埋まっていた。旅装の商人たちが、湯気の立つ椀を前に、声高に話し込んでいる。行き先も、来た方角も、それぞれ違うようだった。
隅の卓に座り、椀を受け取った。会話は、自然と耳に入ってきた。
「——今年はもう無理だな。ニシビスの国境、通行証がなきゃ一歩も進めん」
「ローマとの睨み合いか」
「睨み合いどころじゃない。国境の砦、去年より兵が倍だ。身分の確かでない者は、まず足止めを食らう。下手すりゃ、間者と疑われて牢だ」
「隊商でもか」
「隊商なら、まだいい。荷主の名で通る。だが、一人旅のやつなんぞ、真っ先に怪しまれる。先月も、男が三日足止めされたって話だ」
「証文一枚のために三日か」
「三日で済めば上等さ。俺が聞いたのは、十日足止めされた挙句、結局引き返した奴の話だぞ」
匙を止めた。聞くともなく、続きを待った。
「じゃあ西へは、どう行く」
「船よ。クテシフォンから北へ回って、アンティオキアの港まで陸を行く。あとは船だ。地中海はもう、ほとんどローマの池みたいなもんだ。海賊も、昔ほどじゃない」
「船は船で、当たり外れがあるだろう」
「安い船は、な。素性の怪しい船長も混じってる。港で女子供を乗せて、着いた先で売り飛ばす手合いもいるって話だ。去年、そういう船に乗っちまった娘の噂を、俺も聞いた」
「物騒だな」
「だから、金を惜しむなってことよ。名の通った船主なら、まず心配ない。多少高くてもな」
会話は、そこで別の話題に流れていった。椀の中身を、ゆっくり口に運んだ。
食べ終えると、宿の主人が卓を片付けに来た。手を止めさせず、尋ねた。
「良い船と悪い船、どこで見分けるんですか」
主人が、片付けの手を止めた。
「港の会所だな。船籍と船主の名を、帳簿に控えてある。名前のない船には、乗るな」
「会所は、どこの港にも?」
「大きい港ならな。アンティオキアならあるし、この街にも出張所がある」
それだけ聞いて、礼を言った。主人は、また卓を片付け始めた。
食事を終えると、荷物の点検もそこそこに、宿を出た。出張所の場所を、主人に聞いておいた。市壁の内側、水路が交わる広場の脇にあるという。
朝の市場は、すでに人で埋まっていた。荷を積んだ驢馬の列、布を広げる商人、値切る声。水音に紛れて、方々の言語が飛び交っていた。ソグド語、ペルシア語、聞き覚えのない響きも混じっていた。
並べられた品も、艶のある絹だけでなく、透き通った硝子の器、香辛料の山、見慣れない織り目の絨毯。西からの品と、東からの品が、同じ露店の上に並んでいる。ここが、両方から人と荷が集まる場所なのだと、並んだ品の数だけで分かった。
出張所へ向かう途中、壁の掲示板に、木札が何枚も打ち付けられているのが目に入った。近づいて見ると、荷役や護衛を求める張り紙だった。書かれた文字を、一通り目で追った。日当の額らしき数字も、いくつか書かれていた。足を止めたのは、一瞬だけだった。今はまだ、船の話が先だ。
広場の脇に、石造りの建物があった。戸口の脇に、木の板が何枚も立てかけてある。近づくと、板の一枚一枚に、文字がびっしりと刻まれていた。
中を覗くと、机に向かった書記らしき男が、帳面をめくっていた。声をかけた。
「西へ、ローマへ行く船を探しています。名の通った船は、どうしたら分かりますか」
男が顔を上げ、板の一枚を指した。
「そこに、船の札が並んでる。船主の名と船籍が書いてある。それがない船に手を出すな。あとで文句を言っても、こっちは知らんぞ」
「船賃は、だいたいどれくらい」
「行き先と、船の格によるし、時期によっても変わる。西の果てまでそれなりの船で、となると、荷役の日当を何十日分も積むぐらいには見ておけ。表の札に書いてある値段は去年の目安だから、あまりあてにするな」
礼を言って、外へ出た。板に刻まれた船主の名を、いくつか目でなぞった。初めて見る文字も混じっていたが、意味はそのまま頭に入ってきた。一番上の板に刻まれた数字を見て、書記の言った「日当の何十日分」が、絵空事ではないと分かった。
宿へ戻る道すがら、考えた。
陸路。クテシフォンの手前、通行証。単独の女。ここまで考えて止めた。身分証を得る当てはなかった。足止め、あるいは牢。これだけで、もう考える意味はなかった。
海路。クテシフォンからアンティオキアまでは陸を行く。そこから先が、船。船賃が要る。まとまった額だ。だが安い船は避け、名の通った船を選ぶ。それだけ、余分に銭がかかる。
だが、日数は縮む。陸を突っ切って国境の砦を一つずつ越えるより、海の上を四十日ほど進むほうが、はるかに早い。ローマまでの残りの月数を、頭の中で数え直した。
宿に戻り、窓辺の卓に座り直した。紙はなかった。卓の木目の上に、指先で線を引いた。メルブから、クテシフォンへ。クテシフォンから、アンティオキアへ。そこから先は、線を引かなかった。海の分は、頭の中だけで足した。
銭を数えた。賊から得た現金、交易品を売り払った分と、手持ちの分を合わせても、船賃には遠く及ばなかった。于闐で稼いだ額、カシュガルで稼いだ額を、順に思い出した。あの額の、何倍もの開きがある気がした。指先が、数える途中で一度止まった。数え直しても、開きは縮まらなかった。袋の口を、結んだ。
どこでどれだけ稼げば足りるのか、正確な数字は分からなかった。それでも、于闐の冬一つ分では足りないことだけは、はっきりしていた。でもここでの稼ぎは、乗船までの布石でしかない。稼ぎ切るのは、この先の港に着いてからでも構わない。そこまで見越して、頭の中の数字を並べ直した。
答えは、静かに決まった。海路。安い船ではなく、名の通った船。そのための銭を、ここで稼ぐ。
驚くほどのことではなかった。日数と銭を並べれば、他に選びようがなかっただけだった。
窓の外に、水路の音が続いていた。指先で、もう一度、木目の線をなぞった。




