第11章3節
歩いているのか、止まっているのか、境目が分からなくなっていた。足が交互に出ている感覚だけが、かろうじて残っている。頭の中で、砂の色と夜の色が、同じ濃さで混ざり始めていた。
星の位置を確かめようとして、目を上げた。北斗七星が、一つに見えたり、二つに見えたりした。
膝が、崩れた。倒れたのか、自分で座り込んだのか、区別がつかなかった。両手が砂につく感触だけが、遅れて届いた。冷たさが、指先から少しずつ這い上がってきた。
視界の端に、白い光が滲んだ。瞬きをしても、今度は引かなかった。光は、消えるどころか、輪郭を持ち始めた。
光の中に、後ろ姿があった。長い黒髪。白衣に似た服。机に向かい、何かを書きつけている手の動きだけが見えた。筆記具の先が紙をこする、乾いた音がした気がした。振り返らない。手記の中の筆跡が、脳裏に焼きついていたその姿と、寸分違わなかった。でもボールペンだったか、筆だったか、なぜかそこまでは分からなかった。
呼びかけようとしたが、喉が動かなかった。後ろ姿は、何も言わずに、光の中へ薄れていった。
どれくらいの時間が流れたのか、分からなかった。一瞬だったのかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。
一拍の静寂があった。呼吸の音だけが、砂の上に響いていた。周りを見回す力もなく、ただ、その場に膝をついたままでいた。
すぐ横に、気配があった。顔を上げると、白髪の老人が座っていた。火もないのに、頬がわずかに赤く見えた。木が爆ぜる音まで、聞こえた気がした。あるはずのない暖かさが、頬のあたりに届いていた。老人の胡服の袖が、風もないのに揺れていた。廃墟の壁を背にしていたときと、同じ角度で首を傾けている。腰の環首刀まで、記憶にある通りの位置に差さっていた。
老人は、こちらを見ず、遠くを見ていた。唇が動いた。
「柚……お前は強い子だ。儂よりよっぽど強い。でも、強さだけじゃ生きていけない。誰かと分かち合う心を、忘れるな」
聞いたことのある言葉だった。廃墟の火のそばで、一度だけ聞いた言葉。
答えなかった。答えられなかった。手が、無意識に持ち上がりかけた。触れられるはずがないと、どこかで分かっていた。それでも、指先が少しだけ、老人の袖に向かって伸びた。
老人の輪郭が、端から順に、黒い砂の色に溶けていった。指先は、何もない空を撫でただけだった。最後に残ったのは、声の余韻だけだった。それも、すぐに消えた。
しばらく、何も見えなかった。風の音だけがあった。呼吸だけが、体の中で続いていた。指先が、無意識に砂を掻いていた。
次に人影が現れたとき、体が強張った。
見慣れた背格好だった。黒い髪、日に焼けた肌、いつもの崩れた笑い方。近づいてくる足取りにも、覚えがあった。
「あんた、俺のことずっと気づいてたろ」
声が、耳元近くで聞こえた気がした。振り向いても、距離は変わらなかった。
「なのに無視して。意地悪だよな。一回くらい——ほら、俺たち二人きりだし、砂漠の真ん中だし、誰も見てないし。いいだろ別に」
にやついた口元。馴れ馴れしく伸びてくる手。距離が、少しずつ詰まってくる。
「なあ、いいだろ。減るもんじゃないし」
肌が粟立った。胃の底が、冷たく縮んだ。心臓が、一度大きく跳ねた。反射的に、後ずさろうとした。足が、砂に沈んで動かなかった。伸びてきた手を、両腕で払いのけようとした。空を切った。腕が、無意味に宙をかいた。息が、喉の途中で止まった。
ちがう!本物は、こんな人間じゃなかった!
幻の輪郭が、ふっと崩れた。にやついた笑いも、伸びてきた手も、砂の粒子に還っていく。崩れる速さが、風で崩れる砂丘の斜面によく似ていた。
残ったのは、静かな声だった。
「ローマ、どんな街だったか教えてくれよ」
その一言だけが、崩れずに残った。
あの幻を本物ではないと拒んだ瞬間、本物の輪郭が、はっきりと像を結んだ。頭の中に、堰を切ったように、いくつもの場面が流れ込んできた。
目を閉じようとしたが遅かった。瞼の裏側にまで、光景はすでに届いていた。顔を背けようにも、どちらに背ければよいのかわからなかった。
市場で干し杏を余分に買っていた背中。荷物の点検を並んでするときの、静かな手つき。夜、荷の紐を結び直しながら、こちらを見ずに何か言おうとして、結局言わなかったときの間。野営地の脇で刀を素振りする自分を、黙って眺めていた横顔。門を出るとき、一度も振り返らなかった足音。宿の階段で、すれ違いざまに小さく頷いただけの朝。水路の水面を並んで見ていた、あの数か月前の夜。
一つひとつは、些細なことだった。些細なことしか、思い出せなかった。それでも、全部が重なると、無視できない重さになった。
全部、ちゃんと見えていた。見えていたのに、私は見ないふりを続けていた。
遅すぎた、と思った。
膝の下の砂が、冷たかった。両手を砂につき、体を支えた。顔を上げると、もう何もいなかった。
火もない。声もない。あの後ろ姿も、老人の横顔も、崩れた笑いも、どこにもなかった。ただ、地平線まで続く黒い砂と、自分の呼吸の音だけが残っていた。
息を吸う。吐く。それだけの動作を、しばらく繰り返した。空気は冷たく、乾いていた。吸うたびに、喉の奥がひりついた。
体の底に、重いものが沈んでいた。悲しみとも呼べたし、後悔である気もしたし、でも呼び名をつける必要がない気もした。
膝をついたまま、しばらく動かなかった。風だけが、黒い砂の上を渡っていった。何かが胸の底で静かに固まっていくのを、ただ待っていた。頭上の星の数が、いつのまにか数えられるようになっていた。
やがて、両手を砂から離した。指についた砂を払い、荷物の位置を確かめる。体は、まだ重かった。それでも、まだ動いた。動かなければ、どのみち終わりだ。
立ち上がる前に、一度だけ、目を閉じた。開けたとき、そこにあったのは、いつもの黒い砂と、いつもの星空だけだった。膝の砂を払い、西へ向き直った。




