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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第10章5節

翌朝、目を覚ましたときには、隣の部屋に物音がなかった。


しばらくそのまま横になっていた。水路を流れる音、遠くの鶏の声、宿の下から漂ってくる薪の匂い——いつもと同じ朝だった。


耳が、勝手に何かを探していた。


隣の部屋の床が軋む音。荷紐を締める音。咳払い。いつも朝一番に聞こえてくるはずのものが、どれも来なかった。


起き上がって、隣の戸を叩いた。


返事はなかった。もう一度叩いた。それでも、なかった。


戸を開けた。


寝台の上に、何もなかった。壁際に立てかけてあったはずの荷も、なかった。あるのは、畳まれた寝具と、窓から差し込む光に舞う埃だけだった。


宿の中庭に降りた。駱駝と馬をつなぐ囲いを見た。サムフルの姿はなかった。


主人に聞いた。


「東へ向かう隊商が、今朝早く出たよ。若いのが一人、そこに加わったのを見た」


それだけだった。


城門の方角を、少しの間だけ見ていた。それから、部屋に戻ってその日を過ごした。


---


翌日、市場に出た。


歩きながら、視線が何度か横道に逸れた。人混みの中、背格好の似た男が通るたびに、体が一瞬だけ強張った。近づくたびに、違う顔だとわかった。


わかるたびに、何も感じないふりをして、また歩き出した。


夕方、宿に戻った。食堂の卓に着いたとき、いつも向かいに座っていた場所に、無意識に視線が行った。誰もいなかった。


一人分の皿が運ばれてきた。羊の串焼き、胡餅、大麦の粥。手を伸ばして、食べた。味は、数日前と変わらないはずだった。噛んで、飲み込んで、また噛んだ。それだけの動作を、必要な分だけ繰り返した。


---


二日目、宿の外に出て、少し街を歩いた。


理由はなかった。ただ、部屋にいると、隣の部屋が気になって、それが煩わしかった。


水路沿いの道を歩いた。果樹の枯れ枝の下を通った。街の入口の方角へ、足が自然に向いていた。


門の近くまで来て、足を止めた。


門番が二人、槍を持って立っていた。出入りする隊商が数組、荷を検められている。誰も、見覚えのある顔はなかった。


戻ってくるかもしれない。


その考えが、いつも頭の隅にあった。何かを忘れたとか、気が変わったとか、そういう理由で。門をくぐって、いつもの調子で「悪い、待たせた」とでも言いながら。


でも同時に別の考えがそれを打ち消していた。


あそこまで言ってしまったのだ。あなたが行きたいのはローマじゃない——その言葉を、サムフルの前で、はっきりと口にした。あの顔を見た。傷ついた顔だった。あんな顔をさせておいて、戻ってくるはずがなかった。


門から、目を逸らした。宿へ引き返した。


---


三日目も、四日目も、似たようなことが続いた。


朝、隣の戸に耳を澄ませる時間が、少しずつ短くなっていった。市場で似た背格好を探す回数も、減っていった。自分でも気づいていた。気づいても、もうそれを改めようとは思わなかった。


食堂の卓では、向かいの椅子を見ないようにした。見ないようにしていることに、慣れてきた。


五日目の夜、部屋で荷物の点検をした。


水袋の縫い目を確かめ、保存食の量を数えた。革鞄の留め具を確かめ、刀を鞘から抜いた。刃を光にかざし、油の残り具合を見た。何度か素振りをして、また納めた。


護符に触れた。指先がひんやりとした石の表面をなぞった。


いつもの手順だった。ずっと続けてきた、いつもの手順。今夜も、いつも通りにこなした。


刀を鞘に納めて、そのまましばらく手を止めていた。


「またこういう夜があってもいいな」


「ローマ、どんな街だったか教えてくれよ」


言葉が、順番もなく浮かんでは消えた。順番に並べようとしても、うまくつながらなかった。つながらないまま、頭の中で薄れていった。


---


六日目、市場で干し杏を買い足した。


お金が無いので沢山は買えなかった。


宿に戻る道すがら、水路の水面を見た。街灯りが、細く揺れて映っていた。数日前まで、この道を二人で歩いたはずだった。今、隣に足音はなかった。


それだけのことだと、思うことにした。


---


出発の朝、宿代を払った。


路銀は稼いでいない。すぐに物資が買えなくなる。でも、もうこの街に居たくないと思った。


荷物を確かめる。水袋、保存食、刀、レーザーガンと充電器。いつもの点検だ。指が一つ一つの品を確かめる間、余計なことは考えないようにした。


城門へ向かった。


朝は早く、空気が冷たかった。吐く息が、白く残った。石畳に、まだ霜が薄く張っていた。


城門の前を通り過ぎるとき、視線は前だけを見ていた。門番の脇を抜け、外へ出た。


アム川の方角へ。冬の入り口に、私はひとりで歩き始めた。



第10章 了


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