第10章4節
私の狭い部屋の隅に、小さなランプが一つ灯っていた。火が、壁に細長い影を作って揺れていた。窓の外、運河を流れる水の音が、いつもよりずっと遠く感じた。
床に座って、荷紐を一本、意味もなく指に巻きつけていた。
「聞かせてよ」
私は言った。できるだけ、いつもの調子で。
「何が引っかかってるのか、ちゃんと聞きたい。直せるところがあるなら直す」
「柚は、誰かに何か任せるのが怖いんじゃないか」
サムフルが言った。
「任せたら、何かが壊れるとでも思ってるみたいに見える。荷物のことも、道のことも、俺に決めさせたことが一度もない」
図星だった。でも、そう言われて、素直に頷けるほど単純な話でもなかった。
「そんなことないよ。ただ、私の方が先に考えちゃう癖があるだけで」
つい、そう返してしまった。声が、やはり思ったより硬かった。
「じゃあ、今度から俺が先に決めてもいいのか」
「……いいよ、もちろん」
「本当に?」
「本当に」
サムフルは、少しの間、黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。
「言葉だけだと、そう聞こえる。でも今、決めていいって言われても、俺の中では、何かが違う気がする」
「どうして」
「柚がまだ、俺に何も預けてない気がするからだよ」
胸の奥が、小さく痛んだ。
「預けてるよ。荷物だって、道中の判断だって——」
「荷物や道の話じゃない」
サムフルが、私の目を見た。
「サマルカンドでも、ここに来てからも、柚が何を考えてるのか、俺は結局知らない。ローマに何があるのかも、なんでそんなに急いでるのかも、家族の話も、何も聞いたことがない。俺から聞こうとすると、いつも別の話に逸れる。今夜だってそうだ」
「……それは」
とっさに、笑おうとした。最後にそう笑ったのがいつだったか思い出せないけど、「へへ」って流そうとした。でも、喉の奥で止まった。
「今は関係ない話じゃないかな。アム川の渡り方の方が——」
「ほら、また」
サムフルの声に、初めて小さな苛立ちが混じった。怒りというより、痛みに近い響きだった。
「そうやって、いつも逸らす。今、俺が聞きたいのはそこだよ」
私は、荷紐を強く握った。指の関節が白くなるのがわかった。
「言えないことだって、あるよ」
「なんで言えないんだ」
「……」
「俺のこと、そんなに信用できないのか」
「そうじゃない!」
思わず声が大きくなった。自分でも驚くくらいだった。
「信用してないわけじゃない。ただ……言ったところで、どうにもならないから」
「どうにもならなくても、聞きたいんだよ、俺は」
サムフルの声が、わずかに震えていた。
「ローマまで一緒に行くって、俺が言っただろ。それは、柚のこと知りたいと思ったからだ。荷物持ちだけがしたかったわけじゃない」
「わかってる」
「なら、どうして——」
「あなたが行きたいのはローマじゃない!」
声が、大きくなっていた。自分で出して、自分で驚いた。止めたかったのに、止まらなかった。
サムフルが、固まった。
「……なんだ、それ」
私は、息が詰まるのを感じた。ランプの炎が、二人の間で小さく揺れていた。
「最初からわかってた。だから——」
言葉が、そこで詰まった。どうしても、その先が出なかった。あなたが本当に見ているのは、道の先にあるローマじゃなくて、私だ。そう言えば、全部が壊れる気がした。でも言わなくても、もう壊れかけている気がした。
サムフルが、目を伏せた。深く傷ついた顔だった。
サムフルが、ゆっくりと立ち上がった。戸に手をかけたまま、こちらを見ずに言った。
「……ローマ、どんな街だったか教えてくれよ」
声が、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
私は、何も答えられなかった。
サムフルは、それ以上何も言わず、部屋を出ていった。戸が閉まる音が、静かすぎるほど小さく響いた。
私は、紐を握った手を、床についたまま、動かせなかった。ランプの火が、誰もいない部屋の壁に、まだ細い影を落としていた。




