↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/86

第10章4節

私の狭い部屋の隅に、小さなランプが一つ灯っていた。火が、壁に細長い影を作って揺れていた。窓の外、運河を流れる水の音が、いつもよりずっと遠く感じた。


床に座って、荷紐を一本、意味もなく指に巻きつけていた。


「聞かせてよ」


私は言った。できるだけ、いつもの調子で。


「何が引っかかってるのか、ちゃんと聞きたい。直せるところがあるなら直す」


「柚は、誰かに何か任せるのが怖いんじゃないか」


サムフルが言った。


「任せたら、何かが壊れるとでも思ってるみたいに見える。荷物のことも、道のことも、俺に決めさせたことが一度もない」


図星だった。でも、そう言われて、素直に頷けるほど単純な話でもなかった。


「そんなことないよ。ただ、私の方が先に考えちゃう癖があるだけで」


つい、そう返してしまった。声が、やはり思ったより硬かった。


「じゃあ、今度から俺が先に決めてもいいのか」


「……いいよ、もちろん」


「本当に?」


「本当に」


サムフルは、少しの間、黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。


「言葉だけだと、そう聞こえる。でも今、決めていいって言われても、俺の中では、何かが違う気がする」


「どうして」


「柚がまだ、俺に何も預けてない気がするからだよ」


胸の奥が、小さく痛んだ。


「預けてるよ。荷物だって、道中の判断だって——」


「荷物や道の話じゃない」


サムフルが、私の目を見た。


「サマルカンドでも、ここに来てからも、柚が何を考えてるのか、俺は結局知らない。ローマに何があるのかも、なんでそんなに急いでるのかも、家族の話も、何も聞いたことがない。俺から聞こうとすると、いつも別の話に逸れる。今夜だってそうだ」


「……それは」


とっさに、笑おうとした。最後にそう笑ったのがいつだったか思い出せないけど、「へへ」って流そうとした。でも、喉の奥で止まった。


「今は関係ない話じゃないかな。アム川の渡り方の方が——」


「ほら、また」


サムフルの声に、初めて小さな苛立ちが混じった。怒りというより、痛みに近い響きだった。


「そうやって、いつも逸らす。今、俺が聞きたいのはそこだよ」


私は、荷紐を強く握った。指の関節が白くなるのがわかった。


「言えないことだって、あるよ」


「なんで言えないんだ」


「……」


「俺のこと、そんなに信用できないのか」


「そうじゃない!」


思わず声が大きくなった。自分でも驚くくらいだった。


「信用してないわけじゃない。ただ……言ったところで、どうにもならないから」


「どうにもならなくても、聞きたいんだよ、俺は」


サムフルの声が、わずかに震えていた。


「ローマまで一緒に行くって、俺が言っただろ。それは、柚のこと知りたいと思ったからだ。荷物持ちだけがしたかったわけじゃない」


「わかってる」


「なら、どうして——」


「あなたが行きたいのはローマじゃない!」


声が、大きくなっていた。自分で出して、自分で驚いた。止めたかったのに、止まらなかった。


サムフルが、固まった。


「……なんだ、それ」


私は、息が詰まるのを感じた。ランプの炎が、二人の間で小さく揺れていた。


「最初からわかってた。だから——」


言葉が、そこで詰まった。どうしても、その先が出なかった。あなたが本当に見ているのは、道の先にあるローマじゃなくて、私だ。そう言えば、全部が壊れる気がした。でも言わなくても、もう壊れかけている気がした。


サムフルが、目を伏せた。深く傷ついた顔だった。


サムフルが、ゆっくりと立ち上がった。戸に手をかけたまま、こちらを見ずに言った。


「……ローマ、どんな街だったか教えてくれよ」


声が、ほとんど聞こえないくらい小さかった。


私は、何も答えられなかった。


サムフルは、それ以上何も言わず、部屋を出ていった。戸が閉まる音が、静かすぎるほど小さく響いた。


私は、紐を握った手を、床についたまま、動かせなかった。ランプの火が、誰もいない部屋の壁に、まだ細い影を落としていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。