第10章2節
靄は、近づくにつれて輪郭を持ち始めた。
城壁ではなかった。木々の梢だった。果樹の枝が、街の外まで張り出している。近づくと、水路の音が聞こえてきた。ひとすじではない。何本も、街を縦横に縫うように流れている音だった。
城門をくぐった瞬間、気づいた。
静かだった。
大通りの中央に水路が通り、両側に果樹の枝が水面へ張り出している。果実の季節は終わっていて、枯れかけの葉だけが揺れていた。朝と夕、遠くから低い声が流れてくる——ゾロアスター教の礼拝の声だと、後でサムフルが教えてくれた。人通りは少なく、石畳がやたらと広く感じた。
「静かな街だね」
「サマルカンドとは違うな」とサムフルが言った。「あっちは音がぎゅっと詰まってた感じだけど、ここは……音の間に隙間がある」
「うまいこと言うね」
「柚がいつも変な喩え使うから、うつったのかも」
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宿は、水路に面した二階建てだった。
一階が食堂と厨房、中庭に駱駝や馬をつなぐ囲いがある。二階が客間で、主人が案内してくれたのは隣り合う二部屋だった。
「兄妹かい」
主人がそう聞いてきた。
「いえ」と私が答えるより先に、サムフルが「連れです」とだけ言った。
主人は特に気にする様子もなく、二部屋の鍵を並べて渡した。壁一枚を挟んだだけの部屋だったが、扉は別々についていた。荷物を運び込みながら、サムフルが自分の部屋の戸を軽く叩いた。「こっち側な」
「うん、聞こえる距離だから安心だね」
「安心されるとこか、そこ」
サムフルが笑いながら荷を下ろした。
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その夜、一階の食堂で夕食をとった。
卓に運ばれてきたのは、平たい胡餅と、串に刺して炙った羊の肉だった。羊は塩とクミンだけで焼かれていて、脂の焦げる匂いが強かった。別皿に、大麦の粥——干し杏と干し葡萄を煮込んだもので、とろりとした甘さの中に酸味が混じっていた。もう一皿、酢漬けの野菜。青みの強い葉と、細く切った根菜が、酸っぱさの中にわずかな辛みを残していた。
「果物の季節、終わってるはずなのに、こういう形で出てくるんだね」
「保存が利くようにしてあるんだろうな。冬支度、サマルカンドよりこっちの方が早そうだ」
杯が二つ、運ばれてきた。中身は葡萄酒だった。ソグドの地は酒どころだと、以前アルダフシルが言っていたのを思い出す。
「軽くだけね」
「わかってる。柚、あんまり強くないもんな」
「そんなことないよ、一応」
杯を傾けた。甘さの奥に、渋みが薄く残る味だった。サマルカンドで飲んだものより、少し軽い口当たりだった。喉を通る熱さが、冷えた体の芯に届く。
「うまいな、この羊」
「うん。塩とクミンだけなのに、味が濃い」
「カシュガルのやつはもっとあっさりしてた気がする。向こうの餌と違うんだろうな」
「土地ごとに違うんだね、同じ羊でも」
会話は途切れなかった。焼けた肉を分け合い、粥を交互にすくい、酢の強い野菜に顔をしかめてみせる——サムフルが笑い、私も笑った。
食堂の隅、小さな炉に火が灯っていた。街の遠くから、朝と同じ低い声がまた流れてきた。
「あの声、一日に何回もするね」
「そうか?朝と夕方だけって聞いたけど。今のは夕方のだな」
杯の中身が少しずつ減っていった。頰のあたりが、じんわりと熱を持ち始めていた。
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数日、街の様子を見て回った。
仕事を探すといっても、サマルカンドほど市場が大きくない。露店の数も、行き交う商人の数も、ひと回り少なかった。
「これは仕事探すの、時間かかりそうだね」
「かもな。でも小さい街のほうが、顔覚えられるの早いって聞くし」
「そういうものかな」
「そういうものだよ、たぶん」
サマルカンドでは、市場の喧騒が二人の間を絶えず流れていた。人の声、値切りの応酬、荷車の軋み——それらが埋めていた隙間が、ここにはなかった。
宿の部屋で、私は地図を広げてアム川までの道筋を考えていた。渡河できる時期、その先メルブまでの距離。指で地図をなぞりながら、頭の中で日数を組み立てる。
サムフルは、荷物の点検をしていた。革紐の擦り切れを確かめ、水袋の縫い目を見て、また別の紐を結び直す。何をするでもなく、外の水路を眺めている時間もあった。
「何か手伝うことある?」
ふと顔を上げたサムフルが聞いた。
「ううん、大丈夫。まだ考えてる段階だから」
「そっか」
サムフルはまた荷物に目を戻した。
その日はそれで終わった。翌日も、似たような時間が流れた。私が地図と向き合い、サムフルが荷を整え、外を眺める。会話がなくても気まずくはなかった——少なくとも、私にはそう感じられた。
ただ、その静かな時間が、日を追うごとに少しずつ長くなっていることには、まだ気づいていなかった。




