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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第1章4節

隊商の車輪が石畳を軋ませ、長安の城門をくぐり抜けた瞬間、私は初めて本当の旅立ちを実感した。朝焼けに染まる未央宮びおうきゅうの屋根が背後に遠ざかっていく。馬のいななきと男たちの掛け声が響く中、私は荷車の一台を任され、巾着袋を肩にかけながら隊列の後ろを歩いていた。頭領の声が飛ぶ。「よし、出発だ。遅れるな!」


道は舗装されたような引き締まった平坦な街道が続いていたけど、三日目あたりから徐々に荒れてくる。隊商は二十人。皆、胡服こふくや麻の旅装で、腰に刀を佩いた屈強な男たちばかり。私は女一人、荷役として水桶や麻袋を運ぶ手伝いをしながら、必死に付いていった。夜は野営、昼は休憩を挟んで一日九十〜百十里(約四十〜四十八キロメートル)ほど進む。現代の女性としては若干小柄な私だったけど、この時代ではやや小柄な男性と同じくらいの身長。筋肉も痩せた感じの人が多い中、山岳部で鍛えた足腰が持ちこたえてくれた。「へへ……意外とやれるじゃん、私」って自分を励ましながら歩く。


一週間が過ぎ、街道沿いの小さな村に差し掛かったとき、異変に気づいた。村の入り口に、焼け焦げた土壁と倒れた門柱。道端に人の遺体が二つ、放置されたまま干からびていた。蝿が群がり、異臭が風に乗って漂ってくる。私は思わず足を止めた。胸が締め付けられる。「……え……これ……」


頭領が馬上から吐き捨てるように言った。「戦乱の余波だ。去年の賊の襲撃から何度も村が荒らされたらしい。生き残りは逃げたか、奴隷にされたか。死体なんか、誰も片付けねえよ。ここじゃ命なんて安いもんだ」


私は言葉を失った。現代の日本なら、事故一つで大騒ぎ。警察が来て、ニュースになって、家族が泣く。でもここでは、ただの風景の一部。道端の石ころみたいに放置される。葵さんの記憶がフラッシュバックして、胸の奥がざわつく。彼女もこんな光景を何度も見たんだ……。私は小さく息を吐き、目を逸らさずに歩き続けた。「私……本当に、この世界で生きていけるのかな……」漠然とした不安が、足取りを少し重くする。


それから十日目。薄々わかっていたけど、保存食の計算を完全に誤っていたことを認めざるを得ない。長安で買った干し肉と干しパンは、思ったより早く減っていた。隊商のペースが速く、移動時間も長かったせいか、一日の消費量が予想のよりかなり多い。巾着袋の底を覗くと、もう三日分もない。「うーん……甘かった……」私は肩を落とした。頭領に相談すると、にやりと笑われた。「嬢ちゃん、食料自前って言ったろ。次の村で買え。だが、隊商の通り道じゃ値が跳ね上がるぞ」


次の村は、酒泉しゅせんの手前にある小さなオアシス集落だった。戦乱の爪痕がまだ残る貧しい村。井戸の周りに集まった住民たちは、痩せこけ、目が虚ろだ。私は巾着から銭を出し、干し肉と粟の袋を求めた。村の女が、長安の倍近い値段を吹っかけてきた。「今はどこも食料が足りねえんだ。隊商が来るたび、こうだよ」私は渋々払った。おかげで資金がかなり減った。「……やっぱり、私一人じゃまだまだだな……」心の中で呟きながら、袋を抱えて隊商に戻る。現代のスーパーみたいに安くて豊富な食料なんて、夢のまた夢。ここでは命を繋ぐために、命を削るような取引が当たり前なんだ。


村を過ぎてさらに西へ。道は徐々に砂混じりの荒野になり、風が砂を巻き上げる日が増えた。隊商の男たちと少しずつ言葉を交わすようになっていた。年配の荷役のおじさんが、水を分けながら話しかけてくる。「嬢ちゃん、よく付いてくるな。普通の女なら三日で音を上げるぞ」。私はへへっと笑って返す。「山で歩き慣れてるんです。西方まで、絶対に行きたいんです」。でも、夜の野営で一人になると、手記を開いて葵さんの言葉を読み返す。孤独がじわじわと胸に染み込んでくる。「私はツイてる。長安の人たちも、隊商のみんなも親切で優しい。荷物も奪われていないし、奴隷にされてもいない。私はとてもツイてる」

でも、ふと数日前に見た遺体を思い出す。

「私も、いつかああなるのかな……。痛いのはいやだな……」星空の下で、漠然とした絶望がよぎる。


出発から二十五日目、ようやく酒泉の城壁が見えてきた。長安からここまで、ほぼ一ヶ月。隊商は酒泉の外れの宿場に荷を下ろし、二日間の休養を取ることになった。頭領が私に声をかける。「ここで少し補給しろ。敦煌まではまだ半分以上ある。食料の目算、気をつけろよ」私は頷き、酒泉の小さな市場で再び保存食を仕入れた。今度は前回の失敗を活かして、少し多めに。資金は心細くなったけど、なんとかやりくりできそう。


酒泉の街は、長安より小さく、土壁の家々が固まっている。市場では胡人と漢人が混じり、西方からの珍しい品が並んでいた。私は交易品の玉の欠片を少し売ってみた。予想よりずいぶん安値で、少し赤字だったけど、村での予定外の補給で、手元資金がほとんど底をついていたので仕方ない。「へへ、甘かったかな……でも、次に繋がるよ」。宿の粗末な部屋で荷物を整理しながら、西の空を眺める。次の張掖ちょうえきまではあと六日ほど。そこから更に五日ほどで敦煌につく。砂漠の気配が、風に乗って漂ってくる。


出発の朝、隊商は再び動き出した。私は巾着袋をぎゅっと握った。「葵さん……私、ちゃんとここまで来たよ。酒泉から、張掖へ」。馬のいななきが響く中、隊列は西の道を進み始めた。荒れた村の記憶と、食料の苦労が胸に残る。でも、私は前を向いた。18歳の私、柚の旅は、まだ始まったばかりだ。

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