↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/47

第8章4節


雲の切れ端が西へ流れていき、頭上が急に広くなった。峰の雪が光を返している——さっきまで灰色だった岩の色が、一気に明るくなった。空の青さが深くなっていた。嵐の前の空より、色が濃い。洗われたような青だった。


稜線までの最後の登りだった。雨に濡れた岩が光を反射して、足元が明るい分かえって油断できなかった。足を置く場所を考える思考が、不意に途切れないように意識しなおす。駱駝も慎重に足を下ろしている——砂漠での頑固さとは別物の、慎重な動きだった。


アルダフシルの歩みが、また重くなっていた。


嵐の岩棚で体を冷やした。それが体に余分な消耗を与えたのかもしれない。歩幅がさらに小さくなり、呼吸の速さが上がっていた。サムフルが一度だけ後ろを振り返って、また前を向いた。


峰の向こうに、空だけが見えた。


稜線に出るということは、あの空と地面の境目に立つということだった。もうすぐだ。


---


アルダフシルが止まったのは、稜線の百歩手前だった。


両膝が折れて、その場にしゃがみ込んだ。倒れたわけではなかった。でも立てなかった。手が岩に触れて、体を支えようとしている。吐き気をこらえているのがわかった。目は開いていたが、焦点が定まっていなかった。


サムフルが駆け寄った。「叔父さん——」


「……大丈夫だ」


声が出ていた。でも言葉の輪郭が曖昧だった。大丈夫という声の質ではなかった。


イスマイルが全員を見渡した。


沈黙があった。


長くはなかった。でも、その沈黙の中に、あの条件が入ってきた。


——峠で誰かが動けなくなったとき、置いていくことを受け入れろ。


宿の広間で、イスマイルがそう言った。私はあの条件を、自分のこととして聞いていた。誰かが、ではなく、自分が動けなくなったとき——峠でもし私が倒れたら、置いていかれることを受け入れろ、と。


今、動けなくなっているのは私ではない。


あの条件は、アルダフシルには当てはまらない——私が受け入れたのは自分についての条件だ。アルダフシルがどうなるかは、私が受け入れた話の外にある。無茶苦茶だとわかっていた。それでも、無理やりそう決めた。


「高度を下げれば戻ります」


イスマイルがこちらを見た。


「ここの高さが原因です。西の斜面を少し降りれば気圧が上がって、また自分の足で歩けるようになるはずです。何度もこの山を越えてきた人です。時間の問題だと思います」


「荷を誰が持つ」


答えは、言葉にする前に決まっていた。


「私が持ちます。アルダフシルさんの荷と、自分の荷と」


イスマイルの目が変わった。感情ではなく、計算の目だった。私の体格を見た。肩の厚みを見た。足の踏み方を見た。タクラマカンでは、八十斤の荷を運んできた。隊商宿で荷役をしてきた。その体を、イスマイルは数秒で測った。


「わかった」と言った。


---


アルダフシルの荷を肩に加えた。


重かった。骨にこたえる重さだった。でも、倒れる重さではなかった。重心を確かめた。両方の荷が体の軸に乗るように少し動かした。足を出した。


動ける。


それだけで十分だった。


サムフルとガザンがアルダフシルを両側から支えた。三人で一緒に、最後の登りへ向かった。イスマイルが前に立っていた。


百歩。


稜線に出た。


---


風があった。


稜線の上は、空気が別のものだった。さっきまでと乾き方が違う。薄い、という感触が最も強くなった。


西を見た。


山が、下に向かっていた。まだ岩だらけだったが、遠くの方に草の色がわずかに混じっていた。その先に、霞の中に、平らな何かが広がっているような気配があった。まだ遠い。サマルカンドまで、まだ遠い。でも、西の斜面が下に続いていることが、目に入ってきた。


足が止まった。


意識してそうしたわけではなかったが、東を見た。


来た方角だった。


でも見えなかった。雲が低く垂れていて、東の斜面が霞の中に沈んでいた。カシュガルがあった方角に、もう何も見えなかった。于闐ホータンがあった方角も、砂漠があった方角も、霞の向こうに消えていた。


十三ヶ月。


その時間と距離が、東の霞に目を向けた瞬間に、体を通り抜けた。


距離を実感した、というより——体の中を何かが動いた。西安で石函を開けた遠い遠いあの日。敦煌とんこうの旅籠を掃除していた朝。砂漠の廃墟で張老を腕の中に抱いた夜。撃った狼の味。于闐の石の匂い。カシュガルで聞いたウリの独り言のような言葉——それらが全部、一息で通り過ぎていった。


胸が、動いた。


怖い、と思った。


感じる回路が開いてしまったような怖さだった。こんなふうに何かが胸の内側で大きく動いたのは、張老が腕の中で息を止めた夜以来だった。あの夜からずっと、感じるより先に体が動くようになっていた。体が動いてから、感じたことに後で気づく——そういう順番になっていた。今は逆だった。感じることが先に来て、体がまだついてきていない。


自分が崩れそうだ、と思った。


でも崩れなかった。


胸に、冷たさがあった。服の内側で、護符が胸に当たっていた。師傅シフが「行け」という意味で渡したものが、ここにある。カシュガルがある。楼蘭ろうらんがある。全部が、今この胸にある。


足が動いた。


次の一歩を出した。西の斜面へ向かって。


---


下り始めてしばらくすると、アルダフシルの歩みがわずかに軽くなった。


体が戻り始めている——サムフルが肩に感じる重さで気づいたらしく、一度こちらを見た。私も感じていた。アルダフシルの足が、自分で地面を探し始めていた。引きずられるようになっていたのが、踏み出すようになっていた。


空気が肺の底まで届く感触が、ほんの少しずつ増えていく。稜線との標高差は、まだ僅かだった。でも、それは少しずつ積み重なっていく。


アルダフシルが自分の足で立った。


サムフルが手を離した。アルダフシルは岩に手をついて、少しの間そのままでいた。呼吸が、ゆっくりになっていった。


顔を上げて、周りを見た。


「……俺は生きているか」


ユーモアなのか、ただの確認なのか、判断がつかなかった。


「生きています」とサムフルが言った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。