第8章4節
雲の切れ端が西へ流れていき、頭上が急に広くなった。峰の雪が光を返している——さっきまで灰色だった岩の色が、一気に明るくなった。空の青さが深くなっていた。嵐の前の空より、色が濃い。洗われたような青だった。
稜線までの最後の登りだった。雨に濡れた岩が光を反射して、足元が明るい分かえって油断できなかった。足を置く場所を考える思考が、不意に途切れないように意識しなおす。駱駝も慎重に足を下ろしている——砂漠での頑固さとは別物の、慎重な動きだった。
アルダフシルの歩みが、また重くなっていた。
嵐の岩棚で体を冷やした。それが体に余分な消耗を与えたのかもしれない。歩幅がさらに小さくなり、呼吸の速さが上がっていた。サムフルが一度だけ後ろを振り返って、また前を向いた。
峰の向こうに、空だけが見えた。
稜線に出るということは、あの空と地面の境目に立つということだった。もうすぐだ。
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アルダフシルが止まったのは、稜線の百歩手前だった。
両膝が折れて、その場にしゃがみ込んだ。倒れたわけではなかった。でも立てなかった。手が岩に触れて、体を支えようとしている。吐き気をこらえているのがわかった。目は開いていたが、焦点が定まっていなかった。
サムフルが駆け寄った。「叔父さん——」
「……大丈夫だ」
声が出ていた。でも言葉の輪郭が曖昧だった。大丈夫という声の質ではなかった。
イスマイルが全員を見渡した。
沈黙があった。
長くはなかった。でも、その沈黙の中に、あの条件が入ってきた。
——峠で誰かが動けなくなったとき、置いていくことを受け入れろ。
宿の広間で、イスマイルがそう言った。私はあの条件を、自分のこととして聞いていた。誰かが、ではなく、自分が動けなくなったとき——峠でもし私が倒れたら、置いていかれることを受け入れろ、と。
今、動けなくなっているのは私ではない。
あの条件は、アルダフシルには当てはまらない——私が受け入れたのは自分についての条件だ。アルダフシルがどうなるかは、私が受け入れた話の外にある。無茶苦茶だとわかっていた。それでも、無理やりそう決めた。
「高度を下げれば戻ります」
イスマイルがこちらを見た。
「ここの高さが原因です。西の斜面を少し降りれば気圧が上がって、また自分の足で歩けるようになるはずです。何度もこの山を越えてきた人です。時間の問題だと思います」
「荷を誰が持つ」
答えは、言葉にする前に決まっていた。
「私が持ちます。アルダフシルさんの荷と、自分の荷と」
イスマイルの目が変わった。感情ではなく、計算の目だった。私の体格を見た。肩の厚みを見た。足の踏み方を見た。タクラマカンでは、八十斤の荷を運んできた。隊商宿で荷役をしてきた。その体を、イスマイルは数秒で測った。
「わかった」と言った。
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アルダフシルの荷を肩に加えた。
重かった。骨にこたえる重さだった。でも、倒れる重さではなかった。重心を確かめた。両方の荷が体の軸に乗るように少し動かした。足を出した。
動ける。
それだけで十分だった。
サムフルとガザンがアルダフシルを両側から支えた。三人で一緒に、最後の登りへ向かった。イスマイルが前に立っていた。
百歩。
稜線に出た。
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風があった。
稜線の上は、空気が別のものだった。さっきまでと乾き方が違う。薄い、という感触が最も強くなった。
西を見た。
山が、下に向かっていた。まだ岩だらけだったが、遠くの方に草の色がわずかに混じっていた。その先に、霞の中に、平らな何かが広がっているような気配があった。まだ遠い。サマルカンドまで、まだ遠い。でも、西の斜面が下に続いていることが、目に入ってきた。
足が止まった。
意識してそうしたわけではなかったが、東を見た。
来た方角だった。
でも見えなかった。雲が低く垂れていて、東の斜面が霞の中に沈んでいた。カシュガルがあった方角に、もう何も見えなかった。于闐があった方角も、砂漠があった方角も、霞の向こうに消えていた。
十三ヶ月。
その時間と距離が、東の霞に目を向けた瞬間に、体を通り抜けた。
距離を実感した、というより——体の中を何かが動いた。西安で石函を開けた遠い遠いあの日。敦煌の旅籠を掃除していた朝。砂漠の廃墟で張老を腕の中に抱いた夜。撃った狼の味。于闐の石の匂い。カシュガルで聞いたウリの独り言のような言葉——それらが全部、一息で通り過ぎていった。
胸が、動いた。
怖い、と思った。
感じる回路が開いてしまったような怖さだった。こんなふうに何かが胸の内側で大きく動いたのは、張老が腕の中で息を止めた夜以来だった。あの夜からずっと、感じるより先に体が動くようになっていた。体が動いてから、感じたことに後で気づく——そういう順番になっていた。今は逆だった。感じることが先に来て、体がまだついてきていない。
自分が崩れそうだ、と思った。
でも崩れなかった。
胸に、冷たさがあった。服の内側で、護符が胸に当たっていた。師傅が「行け」という意味で渡したものが、ここにある。カシュガルがある。楼蘭がある。全部が、今この胸にある。
足が動いた。
次の一歩を出した。西の斜面へ向かって。
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下り始めてしばらくすると、アルダフシルの歩みがわずかに軽くなった。
体が戻り始めている——サムフルが肩に感じる重さで気づいたらしく、一度こちらを見た。私も感じていた。アルダフシルの足が、自分で地面を探し始めていた。引きずられるようになっていたのが、踏み出すようになっていた。
空気が肺の底まで届く感触が、ほんの少しずつ増えていく。稜線との標高差は、まだ僅かだった。でも、それは少しずつ積み重なっていく。
アルダフシルが自分の足で立った。
サムフルが手を離した。アルダフシルは岩に手をついて、少しの間そのままでいた。呼吸が、ゆっくりになっていった。
顔を上げて、周りを見た。
「……俺は生きているか」
ユーモアなのか、ただの確認なのか、判断がつかなかった。
「生きています」とサムフルが言った。




