第8章3節
六日目の昼過ぎだった。
登りが続いていた。峠まであと一日——イスマイルがそう言った朝から、地形が険しくなっていた。岩の斜面を斜めに横切るように道がついていて、足を置く場所を選ばないといけない箇所が増えた。駱駝の歩みが一層重くなり、荷馬の鼻息が荒くなっている。
空を見たのは、意識してそうしたわけではなかった。
視野の端に入ってきたものが、引っかかった。
東の空に、積乱雲が育っていた。朝から雲はあった。でも、さっきまでとは形が違う。丸みを帯びて盛り上がっていた頭が、横に広がり始めている。上へ伸びる力を、何かに押さえつけられているような広がり方だった。
懐かしい顧問の声が、頭の中で蘇ってきた。
——雲の頭が横に広がって、かなとこ雲になったら、その雲はもう育ちきってる。ここからは、待ってくれない。
心拍が上がった。歩きながら、風の向きを確かめた。東から西へ流れていた風が、弱くなっていく。
止まった。
完全に止まった。
嵐の下降気流が、地表の風を一度押さえ込む時間がある、と顧問は言っていた。静かになった分だけ、あとで強い風が地面を這って噴き出してくる、と。今、その静けさの中にいた。
前方の稜線を見た。この先を登りきると稜線に出る——イスマイルが今朝、指で示した場所だった。稜線は風の通り道になる。押さえ込まれていた風が噴き出すとき、稜線ではその風が集まって速さを増す。荷を積んだ駱駝と馬が、そこで横風を受けたら。
後方を確かめた。戻れる距離に、右手の岩壁が張り出している場所があった。さっき通り過ぎた、岩が大きく庇のように張り出している場所だ。深さが一間ほどある。全員と獣が入れる。
イスマイルの背中を見た。
頭領の歩みは変わっていなかった。でも、その目が空を一度見たのを、私は見ていた。気づいている。それでも、足を止めていない。
「イスマイルさん」
声を出していた。
男が振り返った。歩みは止めなかった。目だけがこちらへ来た。
「待った方がいい」
「嵐は短い。すぐ抜ける」
その通りだと思った。この手の雲は長くは保たない。でも、それとこれとは別だ。
「短いのはわかってます」と言った。「でも、稜線を抜けるときがたぶん一番強い。遮るもののない稜線で受けたら、荷馬は保ちません」
イスマイルの足が、初めて緩んだ。
「稜線までは近い。今のうちに越える」
「今のうちに、が一番危ないです」あの雲の頭を指さした。「横に広がってます。もう育ちきってる」
一拍、止まった。
「少し戻ったところ、右手に岩棚があります。深さ一間ほど。全員と駱駝が入れる。短い嵐なら、そこでやり過ごした方がいいと思います」
イスマイルが空を見た。雲を見た。前方の稜線を見た。それから私を見た。その目が、私の顔ではなく、私の言った言葉を測っている目だとわかった。
長くはなかった。でも、頭領が迷う時間を、初めて見た。
「——戻る」
イスマイルが言った。
隊が向きを変えた。
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岩棚は、覚えていた通りの場所にあった。
全員が入った。駱駝と馬を奥に繋ぎ、荷の上に布をかけた。イスマイルが無言で動いている。他の者たちも、頭領の動きに合わせて手を動かした。サムフルが荷馬の首を抑えた。アルダフシルが駱駝の手綱を短く持って岩壁に近づけた。
私は出入り口の端に立って、空を見た。
雲の頭が、完全に横へ広がっていた。あの形になったら、あとは崩れるだけだ——顧問の言葉を、もう一度思い出した。
風が来た。
最初は細く、前触れのような風だった。岩棚の内側で砂埃が小さく舞った。それが一気に太くなった——風というより、壁が来た。岩棚の外で、空気が唸り始めた。押さえ込まれていたものが、一度に噴き出した音だった。
稜線の方向から、低く長い音が響いてきた。
ごう、という音が続いていた。稜線の上を通っている風の音だった。岩を削るような、連続した圧力の音だった。荷馬が耳を倒して首を下げた。駱駝が岩壁に体を押しつけた。
さっきまで、あの稜線の上にいた可能性があった。
アルダフシルが岩棚の奥から稜線の方を見ていた。「あの上にいたら」と言いかけて、黙った。
言葉にしなくてもわかった。荷を積んだまま稜線で横風を受ければ、荷馬は立っていられなかったかもしれない。荷が崩れれば、人も巻き込まれる。
雨が来た。
岩棚の縁に、斜めに叩きつけてくる雨だった。横から来るから、奥へ入るほど濡れない。岩の冷気が足元から上がってくる。私は外套の前を合わせた。護符が外套の内側で胸に当たっていた。
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どれくらい待ったか。
音が変わった。唸りが薄くなって、雨の叩きつける角度が少しずつ縦になってきた。嵐が抜けていく。
思っていたより早かった。育つのも崩れるのも速い雲だと、顧問が言っていた通りだった。
イスマイルが出入り口へ出た。空を見た。雲の動きを確かめた。しばらく立っていてから、「行けそうだ」と言った。
荷の布を外した。駱駝の手綱を解いた。来たときと逆の手順で、隊が動き始めた。
岩棚の外に出ると、空気が洗われていた。雨が岩を濡らして、石の匂いが鋭く立っていた。遠くの稜線に、まだ雲の切れ端が引っかかっていたが、頭上は青くなっていた。
稜線へ向かって、足が動き始めた。
前を歩くイスマイルが、歩きながら言った。
「山を知っているんだな」
振り返らずに、足を止めずに言った。
「ほんの少しだけ」
私も足を止めずに言った。




