第8章2節
五日目の朝、駱駝が進むのを嫌がった。
足を踏み出すたびに頭を振り、進もうとしない。ガザンが手綱を引いて宥めた。乾いた平地でどれだけ荷が重くても、黙々と歩いてきた獣だった。その足が今、抵抗している。
イスマイルはその様子を一度見てから、先へ歩き始めた。駱駝も結局ついてきた。
前日から感じていた「空気が肺の底に届かない」という感触が、より明確になっている。深く吸うと胸だけは膨らむ。歩くごとに心拍がわずかに速くなるのがわかった。
アルダフシルがわずかに歩調を落としていた。
列の間隔が少しずつ広がっていて、後ろを確かめたときに気づいた。体格の良い彼が、歩幅を小さくして足を地面に置くように進んでいた。顔色が朝の時点とは変わっている。
「頭が少し痛い」とアルダフシルが誰に言うでもなく言った。
「高さのせいですよ、叔父さん」とサムフルが振り返った。
「わかってる。よくあることだ」
アルダフシルは自分のこめかみを軽く押さえて、それだけ言った。歩幅を戻さないまま、また前を見た。
ガザンが後方から声を出した。「こんなに苦しい山は他に知らない。空気がない」独り言のような声だった。衛は何も言わなかったが、口が半開きで呼吸していた。鼻だけでは足りていない——そういう呼吸だった。
イスマイルがペースを落とした。
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自分の足元を見た。
脚が重い——それはある。心拍が上がっている——それもある。でも「苦しい」の種類が、これまでの他の苦しさと何か違う気がした。壁に当たっている感触がなかった。対処できる苦しさだった。
なぜ違うのか。
考えようとして、答えより先に体が答えた。
息の仕方が変わっていた。意識してそうしたわけではなかった。浅く速くではなく、深くゆっくり。まず急がず、ゆっくり吐く——腹が凹むのに合わせて、少しずつ、出し切るように吐く。鼻から吸って、腹へ落とす。山岳部の顧問が繰り返し言っていた呼吸法だった。高度が上がるほど意識しろ、でも力んでやろうとすると逆に苦しくなる、吐ききることだけ意識して、あとは体に任せろ——。
歩き方も変わっていた。ステップが小さくなっている。重心が低くなっている。足の裏全体で地面を捉えながら進んでいる。
あのころの山岳部の自分が、今ここで歩いていた。
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岩陰を抜けたとき、視界が開いた。
前方の台地が、一気に広がった。岩だけだったものに、草が戻ってきた。丈の低い、地を這うような草だ。その草の間に、白い花が点々と咲いていた。
足が、半拍だけ遅くなった。
今ではない、ここではない、別の場所が脳裏を支配する。
山岳部の北アルプス夏合宿、三日目——雲ノ平の台地に出たとき、霧がちょうど晴れたところだった。台地の全部が、チングルマの白い花と綿毛に覆われていた。ふわふわした綿毛が風に乗ってそこらじゅうに漂って、歩くたびに足元から飛んでいく。白くて、広くて、空と地面の境目がわからないくらいだった。「天上の花畑って、ほんとうにあるんだ」って思いながら、しばらく動けなかった。後ろから来た上級生に「詰まってるぞ」って声をかけられて、我に返った。顧問がその横に立って、何も言わずに台地を見ていた。「ここが日本で一番好きな場所だ」と、あとで教えてくれた。薬師岳の影が台地の端に落ちて、谷から湧いた雲が足元をゆっくり流れていた。あの雲の上に立っていたような、でも確かに土と岩の上にいた感触——仲間の声と靴音が後ろで続いていた。みんないた。
目を上げた。
パミールが、前方に続いていた。
雲ノ平の「広さ」が、一瞬で塗り替えられた。比べる言葉が出てこなかった——比べるという行為が成立しなかった。あの台地は山に囲まれていた。山が額縁のようになっていた。ここは山の中にいながら、山が地平線まで続いている。空の底まで、山でできている。どこまで進んでも、その先にまだ山がある——終わりが視界に入ってこない気がした。
「……大きいな」
声が出ていた。
「何ですか」とサムフルが振り返った。
「山が。北アル——遠い東の山と比べてたんだけど、全然大きさが違う。でも、あっちも花畑があって、綿毛が飛んで、こういう白い花もあって」自分の口が動いていることに、半拍遅れて気づいた。「ここにもあるんだな、と思って」
サムフルが足元の白い花を見た。「名前は知らないですね」
「私もここのは知らない。向こうのと同じかどうかも。似てるだけかもしれない」
「でも似てるってわかるなら、あなたはよく見てる」
「見てるっていうか——好きだったんだと思う、山が」
言ってから、自分でも少し驚いた。過去形で言ったことに、遅れて気づいた。
サムフルは気にした様子もなく、白い花を一つ摘んで、匂いを嗅いでからこちらにさしだした。「あまり匂いがしませんね」
「あちらのも、これくらい近づかないとわからないよ。かすかな甘い匂い」
「甘いのか」サムフルが少し笑った。「叔父さんに聞かせたら喜びますよ。花の話なら得意なので」
「詳しいの?」
「昔、薬売りをしてたことがあるので。草花には詳しいです」
知らなかった話だった。アルダフシルの前歴を、今初めて知った。
衛が横に並んできた。「あなたは山に慣れているのか」
「少し。高い山に入ったことがある。ここより小さいけど」
「小さくても山は山だ」と衛は言った。「砂漠を歩く体と、山を歩く体は違う」
「違いますね。砂漠は砂を読む、山は石を読む——でも、読み方は似てる気がする」
「似てる、とは」
「どっちも、地面の方が先に教えてくれる。考えるより先に、足が反応する」
衛はしばらく黙って歩いていた。「俺は、砂漠しか知らない」
「山、嫌いですか」
「嫌いではない。ただ、なかなか慣れない」
「私も最初はそうでした。慣れって、いつの間にか来るものだと思います」
気づいたときには、もう何度も言葉を返していた。孟頭領の隊商では、陳が話しかけてきても短く返すだけだった。衛が「そうか」と頷いて、また前を向いた。その横顔が、少しだけやわらかくなっていた気がした。
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イスマイルが止まって、後方のアルダフシルを確かめた。声もなく、目だけで様子を見ている。荷を移すほどではない、と判断したようだった。孟頭領が砂嵐の前に野営地を決めた動き方と、どこか似ていた。言葉の少なさと、動く速さが。
「もう少し上がれば峠だ」とイスマイルが言った。全員に向けた声だったが、アルダフシルに向けた声でもあった。
足が、また動き始めた。




