第7章5節
ウリに話したのは、翌日の昼過ぎだった。
「パミールを越える」
ウリは荷の整理をする手を止めて、こちらを見た。少し驚いた顔だったが、すぐに戻った。
「一人でか」
「隊商に加わりたい。荷役と夜番で乗せてもらえる頭領を探している」
ウリは少しの間、何も言わなかった。詮索する気配ではなく、何かを考えているふうだった。
「イスマイルに話してみろ」
「どこにいる人ですか」
「夕方になれば、隊商宿の前にいる。ソグド系の、五十がらみの男だ。パミールを十数回越えている。信用できる」
それだけ言って、ウリは店の整理に戻った。
---
夕方、隊商宿の前へ行った。
数人の男たちが宿の前に立っていた。荷の確認をしている者、話し込んでいる者——その端に、一人だけ動いていない男がいた。
五十がらみ。体格は私より一回り大きい程度だが、立ち方に無駄がなかった。荷を積んだ馬を眺めながら、腕を組んでいる。目が、馬の荷ではなく馬の重心を見ていた。
「イスマイルさんですか」
男がこちらを向いた。表情より先に、体の重心を見られたと気づいた。視線が私の顔ではなく、体の中心、腰の刀の位置、足の踏み方——それを順番に確かめてから、私の目に来た。
「何だ」
「荷役と夜番で、パミールを越える隊に加えてほしい」
イスマイルは少し間を置いた。
「女一人でパミールに来た者はいない。荷物になるだけだ」
だが拒絶の声ではなかった。何かを見ようとしている声だった。
「于闐からここまで単独で来ました。砂漠は越えられました。山は——」
一拍、止まった。
「山の経験はあります」
「どんな山だ」
「遠い東の山です。高い。何度も越えました」
イスマイルが少し目を細めた。
「何を越えた」
「稜線を縦走します。天気が変わる前に判断する訓練をしました」
それ以上は言わなかった。イスマイルも聞かなかった。しばらく私を見てから、「三日、考える」と言って宿の中に入った。
---
三日間、練習の動作の中で整理した。
刀を抜く。隊商の人間が傍にいる状況を、頭の中に置く。襲撃が来た。刀で対処できる——できるなら、それでいい。刀を鞘に収める。
銃を抜く。
赤い照準点が床に落ちる。その光が隊の誰かの目に止まることを、想像した。驚いた隊員が動く。余計な動きが出る。それが怪我に繋がるかもしれない。「ピ」というビープ音が静寂を割り、離れた敵が倒れれば、混乱が起きる可能性がある。
銃を革鞄に戻す。
——隊商にいるときは、銃は最後の最後だ。万一のときに使う。その前に、刀と体で守る。
動作を繰り返しながら、その結論が静かに定まっていった。隊を傷つけたくない。隊を守ることは自分を守ることだ。
---
三日後の夕方、イスマイルが宿に来た。
広間に通すと、椅子に座って私を見た。
「乗せる。条件が一つある」
「なんですか」
「峠で誰かが動けなくなったとき、置いていくことを受け入れろ。荷も人も。そういう場所だ」
私は少し間を置いた。
「わかりました」
イスマイルが頷いた。それから、「もう一つある」と言った。
「刀は使えると言った。本当か」
「于闐の手前、隊商で賊と当たりました。一人に傷を負わせました」
淡々と言った。それ以外の言い方が思いつかなかった。
イスマイルは少しの間私を見てから、また頷いた。それだけで交渉は終わった。「六月の末に出る。それまでに準備を整えておけ」と言って、男は立ち上がった。
---
ウリに出発が決まったことを話したのは、翌日の市場でだった。
ウリは荷を縛る手を止めて、こちらを見た。何も言わなかった。少しの間があって、「気をつけろ」と言った。
その言い方が、商売相手への言葉とは違った。どう違うのかを言葉にするのは難しかった。でも、違うとわかった。私はそれに気づいたが、何も言わなかった。頷いて、市場の奥へ向かった。
---
出発の準備を始めた。
保存食の仕入れ、水袋の状態確認、革鞄の点検——これらの動作は、もう「準備をしている」という感覚ではない。これまで積み上げてきたものが、手を勝手に動かしている。
夜、巾着の中身を最後に数えた。
ここに来た時に考えていたより、少し良い数字だった。女将の小遣いが積み上がった分だ。余裕とは言えないが、不安な数字ではなかった。
出発の前夜、女将に告げた。
「明日の夜明け前に出ます」
女将は帳面から目を上げた。少しの間、私を見た。
「また戻ってくるなら部屋はある」
私は何も言わなかった。頭を下げた。それだけにした。
女将は帳面に目を戻した。
---
夜明け前、隊商の集合場所へ向かった。
天山の稜線が、まだ暗い。東の空の端がわずかに白み始めているだけで、頂の雪はまだ夜の中に溶けていた。パミールの峰は南の暗がりの中にあるはずだったが、今は見えなかった。
護符を服の内側に入れて歩いた。
白玉の冷たさが、胸に当たる。歩くたびにわずかに動いて、また同じ場所に戻る。
集合場所に着くと、焚き火が一つ燃えていた。その光の中に、人の顔がいくつか浮かんでいる。イスマイルが荷の最終確認をしていた。ソグド系の顔が二つ、漢人らしい顔が一つ、それから護衛らしい体格の男が二人。駱駝が三頭、荷馬が二頭、繋がれていた。
私は人の輪の端に立った。
前の隊商に加わったとき——精絶を出た夜明けの頃、孟頭領の背中の後ろに立った——あのときと同じ位置だった。でも、何かが少し違った。
何が違うのかは、うまく言葉にならなかった。
イスマイルがこちらを見た。目が合って、男は視線を荷に戻した。
焚き火の炎が、風の中で揺れていた。
——ここから先は、山だ。
第7章 了
お読みいただきありがとうございました。
本作はカクヨムで先行連載中です。続きを気にしていただける方は、そちらもご利用ください。
【カクヨム版】還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―
https://kakuyomu.jp/works/2912051604743494473
また、カクヨムの近況ノートでは、簡単なものではありますが、地図や設定資料なども掲載しております。
https://kakuyomu.jp/my/news/2912051606321508309




