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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第7章2節

于闐ホータンの城門をくぐったとき「空気が変わった」と思った。あの感覚は正しかった。でも、于闐の空気の変わり方は、まだ「変わった」と認識できる程度のものだった。カシュガルは違う。門を抜けた瞬間に、こちらの輪郭が溶けかける。押し返す必要のある圧力として、音と匂いと人の密度が一気に押し寄せて来た。


通りを歩く人の顔が、于闐より西の顔をしていた。


目鼻の彫りが深い。顎が角張っている。肌の色が浅黒い者と、逆に白い者が混在している。髪の色が、黒ではなく茶、茶ではなく赤みがかった褐色——于闐でも胡人は多かったが、ここでは漢人の方が少数に見えた。服の型も違う。丈の長い胡服に幅広の帯、頭に布を何重にも巻きつけた男、裾に金糸の刺繍が入った袍を着た女、毛皮の縁取りが肩から垂れた上着——一人一人が、違う方角から来たような格好をしていた。


香辛料の匂いがした。


于闐にもあった種類と、なかった種類が混じっている。なかった種類の方に鼻が引き寄せられた。嗅いだことがない。どこから来た匂いかも、見当がつかなかった。


市場の奥から、弦楽器の音が断続的に届いていた。胡琴とは違う音色だった。もう少し高く、もう少し細い。それが人の声と雑踏の中に溶けて、消えて、また浮かんでくる。


私は五歩進んで、立ち止まった。


流れをかき分けるように端に寄り、壁に背をつけた。


感動を先に味わうことが、今は贅沢だとわかっていた。金が無い。宿も見つけていない。情報がない。


まず宿。次に仕事。それから隊商の情報。


人の流れを眺めて、方向を読んだ。


---


宿を探しながら歩いていると、路地の角で荷を担いだ男とぶつかりそうになった。男が「どこへ行く」と聞いてきた。商売っ気のある顔だった——宿まで案内する代わりに銭を取るつもりだろう、とわかった。


「パミールを越えて西へ行く隊商を探しています。ご存知ですか」


男の表情が変わった。


「今の時期は無理だ」


「いつ頃から越えられますか」


「夏のになってから……七月、八月頃。今は四月だ。まだ雪が深い」


男は興味を失った顔で行ってしまった。



---


宿が並んでいる通りに出た。


四軒ほど並んでいる中の一軒の前で、女将らしい四十代の女が台拭きをしていた。胡人と漢人の血が混じったような顔立ちで、目元は深く、鼻筋が通っていた。視線が鋭く、表情はほとんど動かなかった。愛想ではなく、公平さで商売している人間の顔だと思った。


「部屋を借りたいんですが」


女が私を上から下まで一度だけ見た。荷物の量、体格、刀、——素早く、でも正確に測る目だった。


「どこから?」


「于闐から。一人です」


「どこへ行くの」


「パミールを越えて西へ。ただ、今の時期は無理と聞いたので、夏まで滞留が必要かと」


女は少し間を置いた。


「部屋は一日五銭。先払い」


宿賃は想定の中だった。でも、手持ちが薄い。三ヶ月分の宿代とその先の路銀にはとても足りない。


「仕事をやります」と言った。「掃除でも荷役でも。宿代の代わりに」


女が再び私を見た。今度は少し違う目だった。


「言葉はどれだけ話せる?」


「漢語と——西の言葉も少し。胡語も話せます」


「どこの胡語?」


「どこのものでも」


「読むのは?」


「出来ます」


女が眉を動かした。懐疑と、もう少し別の何かが混じっていた。


「私は交易の仲介のようなこともしているけど、ここへ来る商人は、言葉が通じなくて困ることがある。言葉ができるなら、その通訳と、帳簿や伝票の読み上げをやって。それで宿代と食事代を相殺する。働きが良ければ小遣い程度は足してあげる」


「わかりました」


「嘘をついたら、その日から先払い」


「わかりました」


女は台拭きを折りたたんで、「荷物を置いてから飯を食いな」と言った。


---


部屋は小さかった。


板張りの床に薄い敷物、窓は小さく、外の音が壁を通して入ってくる。于闐の工房の部屋より少し広いくらいだった。荷を下ろして革鞄を壁に立てかけ、刀を手の届く場所に置いた。


窓から外を見ると、市場の屋根が連なっている。その向こうに、天山の稜線がまだ白く光っていた。


飯を食いに広間へ出た。


羊の肉を香辛料で炒めたものと、薄い麦の餅が出てきた。匂いが鼻と胃に刺さった——一口食べて、もう一口食べた。脂が口の中に広がり、香辛料の辛みと甘みが後から来た。美味しい、と思った。ただただ、そう思った。


広間の向かいに、五十がらみの商人が一人、杯を傾けていた。こちらに目を向けて、「あんたもパミールの雪が緩むのを待っているのか」と何の気なさそうに声をかけてきた。


「そうです」


「三ヶ月はかかるぞ。七月にならないと、まともな隊が組めない」


「単独では無理ですか」


男が苦笑した。「一人は死ぬ。夏でも隊を組まないと厳しい。冬の間に何人か試みたやつを知ってるが——まあ、誰も戻ってこなかったな」


男は杯をあおった。



---


部屋に戻り、壁にもたれて目を閉じた。


三月下旬に于闐を出た。今は四月。パミールが越えられる時期まで、あと三ヶ月。それまで、一人でここにいる。隊商を探して組む必要がある。


一呼吸おいた。


「わかった」と、声には出さずに思った。次の問題に進む。


巾着を取り出して中身を確かめた。仕事が続けば宿代と食費は当面心配しなくていい。パミールを越える物資代——これは今後頑張って稼ぐしかない。宿の主人との契約は悪くない試みだ。通訳の仕事が続けば、少しずつ積み立てられるかもしれない。


明日から何をするか。朝は練習。宿の女将と市場へ出る。午後に隊商の情報を集める。


市場の奥から、また楽器の音が届いてきた。夜になっても、まだ誰かが弾いている。于闐では夜になると工房の音が途絶えた。ここの夜は別の音で満ちている。


目を閉じたまま、その音を聞いていた。


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