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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第6章4節

翌朝も、工房街を通り抜けようとした。


朝の練習を終え、旅籠の朝飯を食べて、いつもの道を歩く。老工匠の工房の前を通り過ぎる前に、足が一拍だけ遅くなった。昨日の静けさが、まだどこかに引っかかっていた。


扉は今日も少し開いていた。


中を覗こうとした瞬間、鈍い音がした。何かが倒れる音。それから、若い声が上ずった叫び声を上げた。


扉を押して入った。


薄暗い工房の中で、老工匠が床に倒れていた。作業台のそばに、道具が幾つか落ちていた。そばに、十七、八の少年が膝をついて老人の肩を揺すっている。


「師匠、師匠——」


「揺すらないで」


少年の手を止めた。少年が顔を上げる。目が赤い。


老工匠は目を開いていたが、焦点が定まっていなかった。口元が微かに動いている。呼吸はある。顔色が左右で微妙に違う気がした。右の口角が下がっている。体の左側だけ、力が抜けているように見えた。


卒中そっちゅうの症状を、映像で見たことがある。顔の左右差、片麻痺、呂律が回らなくなる——条件が揃っていた。


「医者を呼んできて。走って」


少年が立ち上がりかけて止まった。「でも師匠を一人に——」


「私がいる。早く」


少年が走り出た。


私は老工匠の傍に膝をついた。体を動かすのは良くない。まず温めることを考えた。作業台の脇に作業着が掛かっていた。取って、老工匠の体にかぶせる。石の床の冷気が下から上がってくる。工房の隅に麻袋が積んであった。引き出して、頭の下に差し込んだ。直接床に頭が当たらないように。


老工匠が何か言おうとした。


「動かなくていい。医者が来ます」


声に出しながら、自分の声が思ったより落ち着いているのに気づいた。


近くの水差しを取り、布を湿らせて口元に当てた。意識が薄い状態で飲ませると詰まることがある——唇だけを湿らせる程度にした。


手が動いている。


そのことに、少し遅れて気づいた。何かを得るためでもなく、手が動いている。打算のない動作を、体が少し忘れていたのかもしれない。荷を運ぶときの手つきとも、刀を抜くときの手つきとも違う。ぎこちない。自分の手が、自分のものではないように動いていた。


老工匠の目が、私の顔を見た。


何か言おうとして、うまく声にならなかった。


「いいです。喋らなくて」


私はそれだけ言って、布を替えた。


---


医者は半刻ほどで来た。


四十代の、落ち着いた顔をした男だった。老工匠を診て、少年に何事か告げる。少年が青い顔でこちらを向いた。


「卒中だと」


「そうかもしれません」


「助かりますか」


「今のところ呼吸は安定しています。それだけは確かです」


医者が去り際、私に短く言った。動かすな、温めろ——私がすでにやっていたことと、ほぼ同じだった。


少年が床に座り込んでいた。


膝を抱えて、老工匠の顔を見ている。名前を呼ぶわけでもなく、泣くわけでもなく、ただ見ていた。私はその隣に腰を下ろした。立って出ていく気になれなかった。


しばらく沈黙が続いた。


「……ありがとうございます」


少年が小さく言った。


どう返せばいいかが、わからなかった。敦煌の旅籠では、礼を言われればすぐ笑って返せた。今は、その間合いが掴めない。


「私は柚といいます」と言った。それだけ言えた。


阿青アーチンです」と少年が答えた。


---


三日後、老工匠は意識を取り戻した。


意識は戻ったが、手先の細かな動きがまだ戻らなかった。医者によれば、回復には時間がかかる。工房の繊細な仕事は当面難しい——そういうことらしかった。


阿青が私に話をしに来たのは、その翌日だった。


「仕事を手伝ってもらえませんか。住み込みで」


「工房の仕事はできません」


「手伝いでいいんです。荷の運び込み、工房の掃除、材料の仕入れ。僕が彫りの仕事をしている間、それ以外のことをやってくれれば」


「賃金は」


阿青が言った額は、隊商宿の日払いより少し良かった。それに住み込みなので旅籠代が要らない分、手元に残る金がずいぶん変わってくる。


「春先まで、でいい?」と聞いた。


阿青は少し驚いた顔をしてから、「はい」と言った。


「川が緩んで道が開く頃に、西へ出ます。それまでなら」


「わかりました」


私は頷いた。


工房の隅の小さな部屋——道具の置き場を兼ねた、板張りの狭い場所——が私の居場所になった。荷物を移し、革鞄と刀を壁に立てかける。旅籠より少し狭い。でも、夜の練習場所もなんとか確保できる。


春先まで、ここで稼ぐ。喀什カシュガルへの路銀を、少しずつ積もう。


出発の日は、最初から決めていた。

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