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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第1章2節

朝の光が、土壁の小さな窓から細く差し込んでいた。私はゆっくりと目を覚ました。粗末な布団の感触が、体にべったりと張りついている。昨夜の出来事が、夢じゃなかったことをすぐに思い出した。頭が少し重い。手記を抱きしめたまま、巾着袋を確かめる。底に隠したレーザーガンと充電器は、無事。現代の服を全部売り払ったおかげで、荷物は軽いけど、心の重さは全然変わらない。


「はあ……本当だったんだ……」小さく息を吐いて、起き上がる。部屋の隅に置かれた水桶で顔を洗い、麻の上着を整える。鏡代わりに売ってしまったスマホはもうないけど、代わりに手にしたのは葵さんの手記。ページをそっとめくると、彼女の震える文字が目に入る。大秦——ローマまで行かなきゃ。現代に戻る道は、それしかないんだ。


腹がぐうっと鳴った。この時代にきてから何も食べてなかった。朝ごはん、食べなきゃ。宿の主人に少し聞き、近くの市場に露店があると聞いて外へ出る。長安の朝は、すでに賑やかだった。石畳の道を馬車がガタガタ通り、商人たちが声を張り上げて客を呼んでいる。空気には香辛料と煙の匂いが混じって、現代の長安とは全然違う。ハイテクの匂いなんてない。ただ、土と汗と、生き物の匂い。


市場に着くと、食べ物の屋台がずらりと並んでいた。私は財布代わりの巾着から銭を少し出して、露店で朝食を摂った。粟の粥と、胡餅——平たい焼きパンみたいなやつ。それに干し果物が少し。現代のコンビニおにぎりや味噌汁とは全然違う。粥は薄味で、塩気が控えめ。粟の粒が口の中でぷつぷつと弾ける感触が新鮮だけど、現代の白米みたいにふっくら甘くはない。胡餅は表面がカリッとしてるのに、中はもっちり。油の風味が強いけど、現代のパンみたいにバターや砂糖の甘さがない。干し果物は酸っぱくて、喉に残る。現代のフルーツジュースみたいに爽やかじゃないけど、噛むたびに自然の甘みがじわっと広がる。


「うーん……おいしいけど、なんか物足りないかな……」私は小さく呟きながら、屋台の端に座ってゆっくり食べた。普段の家での朝ごはん——トーストにコーヒー、ヨーグルト——を思い出すと、味の濃さが全然違う。ここではスパイスや塩で味を調整してるけど、現代の調味料みたいなキレがない。体に染み込むような素朴さ。でも、それが逆に新鮮で、なんだか元気が出てくる。「へへ、旅の始まりだもんね。こういうのもいいかも」


食べ終わる頃には、市場の喧騒が本格的になっていた。私は立ち上がって、周りをきょろきょろ見回した。ローマへの道のり、ちゃんと知らなきゃ。葵さんの手記にあった「大秦」という名前を、まずは試しに聞いてみることにした。荷物を積んだ行商人のおじさんに声をかける。


「あの、すみません。大秦たいしんって都まで、どんな道で行けるんですか?」


おじさんは眉をひそめて首を傾げた。「大秦……? 聞いたことないなあ。西方の果ての国? そんな遠い話、俺は知らねえよ」。次に旅人風の若い男二人組に聞いたときも、同じ反応。「大秦? なんだそれ。ローマってのも聞いたことねえ。西の果てってだけじゃ、道なんか分からねえよ」。僧侶の托鉢をしているお坊さんに尋ねても、穏やかに首を振られた。「大秦の名は聞いたことがない。西方の遥か彼方……そんな話は経典にも出てこぬ」


私は少し肩を落とした。みんな、大秦の名前すら知らない。葵さんの記憶の中では「西方の大秦」として確固たる認識だったけど、この時代の人たちにとってはまだ遠すぎる幻の国みたいだ。テレビで見たことがあるシルクロードの地名を思い浮かべ、私は戦略を変えることにした。西へ、喀什カシュガルへの道を聞けば、きっとヒントが得られるはず。


今度は、別の行商人のおばさんに声をかけた。「あの、西へ、喀什ってところへの道って、どんな感じですか? テレビで見たことがあるんですけど……」


おばさんは目をぱちくりさせて、怪訝な顔をした。「テレビ? 何じゃそりゃ? お前さん、どこの国の言葉だい? まあいいや、喀什のことなら分かるけどね」それでも気さくに頷いてくれた。「あそこなら敦煌を経由するのが一番だね。長安から西へ、酒泉しゅせん張掖ちょうえきを通って敦煌とんこうのオアシスへ。そこから砂漠を進んで、楼蘭ろうらん于闐ホータン喀什カシュガルとオアシスを繋いでいくんだ。隊商に乗れば安全だよ。もっとも私ゃ、この街から一歩も出たこと無いけどね」


他の旅人や商人にも同じように「西の喀什へ」と尋ね回ると、みんな口を揃えて敦煌の名前を出した。「敦煌行きの隊商に乗れ」「明後日、出発する隊商があるぞ」僧侶のお坊さんも、「古い寺院のある敦煌から西へ向かう求法の旅人が多い」と教えてくれた。結果として、敦煌を経由するのが適当だとはっきり分かった。喀什はまだ遠いけど、敦煌までは隊商がかなり行き来しているみたい。玉の欠片や香料の小袋を仕入れて、荷役の手伝いを申し出れば、乗せてもらえるかも。


情報が集まるにつれ、胸の奥で現実が重くのしかかってきた。みんな親切だけど、誰も私のことを本当には知らない。タイムスリップした18歳の女の子だって、誰も想像しない。友人たちの顔、家族の声、卒業旅行の楽しかった記憶が、ふっと遠くなる。「私……本当に一人なんだ……」漠然とした不安が、朝の陽射しの中でじわじわ広がる。でも、すぐに首を振った。「だめだよ、柚。部活で鍛えたんだから、いっぱい勉強だってしてきた。へへ、絶対にローマまで行くよ」。


再び市場を回り、敦煌行きの隊商の情報を確かめる。古い商人から「明後日、出発する隊商がある。玉や香料を持っていけば、荷役の手伝いで乗せてもらえるかも」と聞けた。私は頷き、仕入れの準備を心に決めた。現代の小物はもう売ったけど、残りの資金で軽い交易品を少し買っておこう。巾着袋を肩にかけ直し、手記をそっと撫でる。葵さん、私も同じ道を行くよ。あなたが力尽きた長安から、ちゃんと西へ。敦煌から、喀什へ……そしてローマまで。


市場の賑わいが背中に遠ざかる中、敦煌行きの隊商を探すために、私はもう一度市場の奥へ足を向けた。


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