第1章1節 西安 2072年6月
高校の卒業式を終えた今、私は友人たちと一緒に中国の西安を訪れる卒業旅行の真っ最中だった。
現代の日本は、なんだかんだで平和だけど、中国の治安がここ数年で急に悪化してるってニュースをよく見る。出発前に買った、小型レーザーガンとその充電器をバッグに忍ばせていた。護身用だけど、なるべく使いたくない。バッグの底に隠して、今日は遺跡見学だ。
西安——かつて長安と呼ばれた古都——の街は、現代のハイテクビルと古代遺跡が混ざり合った不思議な景観だった。未央宮遺跡は特に人気スポットで、私たちは朝から通訳付きガイドツアーに参加して、広大な敷地を歩き回っていた。友人たちが「柚、写真撮ろうよ!」ってはしゃいでる中、私はなんだか胸がざわついていた。遺跡の奥、立ち入り禁止の標識が立てられた崩落部の方から、誰かに「呼ばれている」ような気がして仕方ない。好奇心旺盛な性格が災いして、つい友人たちとはぐれてしまった。「ちょっとだけ見てくるね……すぐ戻るよ」って独り言を呟きながら、標識を無視して足を踏み入れる。
崩落した石壁の隙間をくぐり、薄暗い空間に進むと、そこに古びた石函がぽつんと置かれていた。埃を払って蓋を開けると、中から出てきたのは、文房具屋でよく見る高保存性素材の手帳。表紙はもう随分ボロボロだけど、中ははまるで昨日書かれたみたいに文字がくっきり残ってる。「え……これ、なに?」私は思わず手を伸ばし、ページをめくった。
最初の一行を読んだ瞬間——奔流が私の中に流れ込んできた。
葵さんの記憶。三十歳の女性科学者だった彼女が、現代の研究所で時間制御実験に参加したところ、制御不能の光に包まれて弥生時代の日本にタイムスリップしたところから、すべてが一気に。
不思議とどこでも言葉が通じるという天の恵み。卑弥呼の神託——「西方の大秦、お前たちの時代で言うローマの都まで行け。そこで門が開く。家族の待つ時代へ帰れるだろう」。希望に満ちて旅立ったのに、海での難破、詐欺、奴隷商人に何度も売られ、逃亡を繰り返す日々。体は痩せ細り、髪は乱れ、三十年という歳月が彼女を老いと絶望に染めていく。現代の家族——夫と幼い娘、両親——の顔を胸に、ただ一人で海と山を越え、長安の路地裏で力尽きようとする最後の瞬間まで。
「う……あ……」頭が割れそうに痛い。葵さんの三十年分の孤独と痛みが、私の体を駆け巡る。家族への愛情、決して諦めなかった希望、そして最後に綴られた手記の言葉——「もしこの手記が、未来の誰かの手に渡ったら……どうか、私のことを家族に伝えてほしい。葵は、ずっとあなたたちを愛していたと。三十年もの間、決して諦めなかったと」。
涙が溢れて止まらない。私は手帳を胸にぎゅっと抱きしめ、膝から崩れ落ちた。意識が遠のいていく。
……目が覚めたとき、そこはもう、現代の西安じゃなかった。
空は澄み渡り、建物は土壁と木造の古代中国風。街路を歩く人々は、漢服に似た衣装をまとい、馬車や荷車がガタガタと音を立てている。空気も匂いも、すべてが違う。未央宮の遺跡は、さっき見たときよりは少々無骨に見えたが、門番に守られた宮殿としてそびえ立っていた……。周囲の視線が一斉に私に集まる。みんなが私の服装を不思議そうに見ている。
「え……ここ、どこ……?」私は慌てて周りを見回した。バッグは無事。レーザーガンと充電器も、現代の服も全部残ってる。でも、手に持った手帳は——葵さんの手記は、表紙は傷んではいたけれど、先程より遥かに新しくなったように思えた。ページをめくると、彼女の震える筆致は相変わらずそこにある。
信じられない。信じたくない。私は立ち上がろうとして軽い吐き気によろめき、近くの石壁に手をついた。心臓が激しく鳴っている。夢? 幻覚? いや、違う。地面の感触、風の匂い、遠くから聞こえる馬のいななき、すべてが現実だ。現代の西安から、突然、昔の長安へ……タイムスリップしたんだ。
呆然と立ち尽くす。頭の中が真っ白になる。どうして私? なぜ今? 友人たちは? 家族は? スマホは圏外、連絡なんて取れない。バッグの中の現代のTシャツ、ジーンズ、スニーカー——全部がここでは浮きまくってる。みんなの視線が痛い。好奇の目、訝しげな目。早くこの場を離れなければ。
手記の内容、葵さんの記憶が鮮明に蘇る。彼女は三十年かけてここへの道を歩いてきた。卑弥呼の神託通り、西方の大秦——ローマ帝国の都まで辿り着けば、時の門が開く。現代に戻れる唯一の方法。それ以外に道はない。少なくとも他に手がかりはない。海を渡り、砂漠を越え、山を越え、戦乱の世を生き抜いて……それでも彼女は力尽きた。でも、私は違う。まだ18歳。中学の陸上部や、高校の山岳部で鍛えた体力もある。現代で学んだ知識だって、少しは役立つはず。
中国語は、卒業旅行が決まって少しは勉強したけど、ほとんど聞き取ることもできず、旅行中も通訳さんに頼り切りだった。でも、不思議なことに、今は日本語を聞き取るように理解できる。頭の中で訳そうとする努力すら必要ない。これが葵さんの手記にあった天の恵みなのかな?
でも、「ローマ……大秦まで……私、一人で行かなきゃいけないの……?」つぶやく声が震える。胸が締め付けられる。現代に戻るには、それしかない。家族の顔、友人たちの笑顔、卒業式の予感、全部が遠ざかっていく気がした。絶望が喉まで込み上げてくる。でも、諦めちゃダメ。葵さんが三十年耐えたんだ。私も、絶対に。
それに、この服装。目立ちすぎる。現代の服はここでは「西方の珍奇な織物・道具」として売れるかもしれないけど、今すぐ着替えないと、変な目で見られ続ける。市場を探して、現地の服を手に入れなきゃ。漢服みたいなシンプルな上着とズボン、できれば旅装に適した丈夫なやつ。目立たないように、すぐに着替えて、隊商に紛れ込まないと。
私は深呼吸をして、周囲をもう一度見渡した。宮殿の影から抜け出し、賑やかな街路へ。まずは資金を確保しないと。バッグを売って、代わりに旅に適した丈夫そうな巾着袋を買おう。現代のバッグは目立つし、長旅には手を使うから不便だ。
市場の露店を歩き回り、適当な商人を見つけた。少し緊張しながらバッグを差し出す。「これ、西方の珍しい袋なんだけど……買ってくれない?」適当にでっち上げた説明を加えると、商人は興味を示してくれた。値切り合いながら結局、予想より良い値で売れた。その金の一部で、丈夫な麻製の巾着袋を買う。紐をしっかり締められる旅人向けのやつで、リュックみたいに肩にかけて歩きやすい。レーザーガンと充電器を底に隠し、手記を大事にしまう。「これで少しはましになったかな……」とほっと息をつく。
正始6年6月。商人から聞くことが出来た。それがこの時代だった。
スマホのオフライン辞書で、それが西暦で言う245年であることを知った。
次に、古着屋の角を曲がった路地で、旅装の古着を探した。灰色の麻の上着とゆったりしたズボン、シンプルな布の靴。少し擦り切れてるけど、動きやすそう。差額の残りで買って、近くの物陰——廃屋の隙間みたいなところに隠れて着替える。現代のTシャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、スニーカーを脱ぐ。肌に直接触れる古代の布の感触が少しざらついて、なんだか不思議。着替え終わって鏡代わりにスマホの画面を覗くと、自分の姿がすっかり現地の人みたい。「うーん、ちょっと大きいけど……これで大丈夫だよね」
脱いだ現代服を市場に戻って売る。「西方の珍奇な織物と道具だよ!」って声をかけると、商人が目を輝かせて買ってくれた。Tシャツやジーンズは特に高値で、スニーカーも珍しがられた。おかげで資金が増える。
最後に、スマホを手に取る。電波がなかったのでバッテリー表示が既に赤い。データを全部リセット。写真も連絡先も、全部消す。心が少し痛むけど、仕方ない。「ごめんね……もう、鏡としてだけ生きて」画面を綺麗に拭いた。しょぼくれた表情の丸顔に、ちょっと癖のあるボブカットが映り込む。スマホを商人に見せながら「これ、西方の不思議な鏡。とても綺麗に映るよ」と説明すると、商人は大喜びで買ってくれた。ガラスの画面の反射が珍しいみたい。
得た資金を握りしめ、私は宿を探した。長安の街外れの安宿。土壁の小さな部屋に通され、粗末な布団が敷いてある。代金を払って部屋に入ると、ドアを閉めて荷物を置いた瞬間、膝が崩れた。
「はあ……あぁ……」ようやく一人になれた。手記を抱きしめ、床に倒れ込む。今日一日の出来事が頭を駆け巡る。タイムスリップ、葵さんの記憶、現代に戻るための長い旅……。目立ちすぎる服装をなんとかしたけど、これからどうなるんだろう。孤独がじわじわと胸に広がる。でも、諦めない。絶対にローマまで行く。
「そういえばご飯食べてないや……ホテルの朝ごはん、もっといっぱい食べておけばよかった……」
泥のように眠りに落ちる前に、小さく呟いた。
体が重く、意識が溶けていく。長安の漆黒の夜の静けさが、私を包んだ。




