第4章2節
市場の喧騒に足を踏み入れた瞬間、香料と革、汗と馬の匂いが一気に鼻を突いた。楼蘭の市場は、オアシスの水音と人の声が混じり合って、砂漠の死の記憶を少しだけ遠ざけてくれるようだった。
私は露店を一つ一つ回り始めた。
最初に声をかけてきた商人は、四十代くらいの胡服の男だった。私の姿を見るなり、口元を歪めて笑った。
「ほう、小娘一人で交易か。親はどこだ? まあいい、玉と香料、……五十銭でどうだ? これ以上は無理だぜ」
小娘と侮った口調がはっきり聞こえた。敦煌にいた頃の私なら、慌てて笑顔を作って交渉を始めて、でも丸め込まれていただろう。
私の目を見た男の指が、玉の欠片を握ったまま止まった。
一瞬、喉が鳴るような音がした。
「……いや、待て。あんた……」
彼は慌てて視線を逸らし、咳払いをした。値切る言葉が途中で飲み込まれ、まるで最初からなかったかのように態度は一変した。荷物を改めて見直し、お爺さんの上質な玉と香料の質に気づいたらしい。
「これは……いい品だな。全部で二百五十銭でどうだ? 悪くない値だと思うぜ」
それなりの額だった。お爺さんの交易品があったおかげで、思ったより良い値がついた。金を受け取りながら、私は静かに頷いただけだった。喜びはすぐに胸の奥に沈んで、本当はお爺さんが手にしていたはずのお金だと思った。一人、長いタクラマカンを越えた代償に手にするはずだった、大事なお金。
お爺さんの刀と、賊の短刀のうち一本は売らずに残した。お金を巾着袋にしまい、私は馬を市場の馬商に引き渡した。馬の首を軽く撫でながら、胸の内で小さく呟いた。
可愛いし、馬に罪はないのはわかっていた。でも、あの賊たちの馬だと思うと、どうしても好きになれなかった。ごめんね。
丸一日以上、ほとんど何も食べていない。食欲はなかったけど、これでは体がもたない。
私は屋台の前で足を止めた。鉄鍋の中で羊肉がコトコトと煮え、葱の緑が浮かぶ湯餅の湯気が立ち上っていた。油が黄金色に光り、熱々の出汁の匂いが鼻を突く。
……美味しそうだ。
絶対に美味しいはずなんだ。
私は巾着から銭を数え、差し出した。
おばさんがにこりと笑って、大きな椀に具を山盛りにして渡してくれる。熱さが掌に染みた。
木の匙で一口すくう。
熱い。喉を通る瞬間、温かさが胃の底まで染み渡る……はずなのに。
味が、しない気がする。
ただ、口の中で温かい液体と肉の塊が転がってるだけ。鉄のような、血の匂いが鼻の奥に蘇って、喉が詰まる。
「…………うん、美味しいね」
無理に笑って、もう一口。
かすかな吐き気を無視して、もう一口。
私はゆっくりと椀を空にし、市場の人波に紛れた。
宿に戻る頃には、陽が西に傾いていた。旅籠の裏手にある小さな空き地——雑草が生え、土壁の残骸が崩れただけの、誰も寄りつかない場所を見つけた。月明かりが白く地面を照らし、ちょうどいい。
私は刀を鞘から抜いた。
重い。冷たい。
「はっ……」
素振りを一振り。
二振り、三振り。
昔から運動神経は良かった。大抵のスポーツは、少し練習すると、それなりにできるようになった。それがここでも役に立った。腰の回転、足の踏み込み、刃の軌道——少し練習しただけで、刀が手に馴染んでいく。でも、それだけだ。
あの盗賊のような男に、真っ向勝負で勝てる気がしない。
力も、経験も、覚悟も、すべてがまだ足りない。
私は刀を止めて、月明かりの下で息を吐いた。刃が銀色に光り、自分の影が長く伸びている。
「……まだ、だめだね」
小さく呟いて、再び素振りを始めた。
宿の灯りが遠くに漏れ、夜風が胡服の裾を揺らす。
一人で生きる覚悟を、刀の重さとともに、胸に刻み込むように。
私はただ、黙々と腕を振り続けた。




