第4章1節 楼蘭〜米蘭 245年(正始6年)10月 旅立ちから4ヶ月
夜半、楼蘭の城壁がぼんやりと浮かび上がってきた。
私は賊の馬の轡を握りしめ、ほとんど眠れなかった昼休憩を挟んで砂漠を進み続けた後、ようやくその灰色の影にたどり着いていた。星明かりだけが頼りの道だったのに、城壁の輪郭がはっきりするにつれ、胸の奥が少しだけ緩んだ。オアシスの風が運んでくる緑の匂い、水の匂い、土の匂い——砂漠の死の記憶を一瞬だけ洗い流してくれそうな、生きている匂い。
城門をくぐる瞬間、衛兵の松明が私の顔を照らした。胡服に砂と血の跡がこびりつき、馬の背には老人の荷物と自分の巾着袋がぎっしり詰まっている。衛兵は一瞬怪訝な顔をしたが、言葉を交わさずただ手を振って通した。私は小さく息を吐き、馬を引いて石畳の道を進んだ。
安堵が体を包むはずだった。
なのに、掌にお爺さんの血の感触が蘇る。温かくて、ねばついて、指の間を伝って落ちていったあの感触。砂に埋めた墓の石を積み上げたときも、馬の背に荷物を固定したときも、ずっと拭っても拭っても消えなかった。レーザーガンを握ったときの震え、引き金を引いたときの小さな「シュッ」という人を焼く音、賊の体が崩れ落ちる瞬間——すべてが、夜の闇の中で鮮やかに甦る。
「…………もう、いいよ」
小さく呟いて、私は頭を振った。へへ、と笑おうとしたけど、唇が引きつるだけで声にならなかった。敦煌を出たときの私とは、もう違う。十九歳になったばかりのあの頃、砂漠の灼熱と孤独に怯えながらも「一人でもやっていける」って無理に自分を励ませていたあの頃とは、決定的に違う。
小さな旅籠を見つけた。看板は風化して文字が薄れていたが、灯りが漏れていて、宿の匂いがした。私は馬を裏の厩に繋ぎ、用心棒に少しの銭を渡して見張りを頼むと、部屋を借りた。狭い一室。粗末な布団が敷いてあるだけ。荷物を下ろし、環首刀と短刀を枕元に置き、レーザーガンと充電器は懐にしまったまま、私はそのまま布団に倒れ込んだ。
体が重い。
目を閉じると、砂漠の廃墟の火影、お爺さんの掠れた声、賊たちの嘲笑がぐるぐる回る。
「柚……お前は強い子だ」
あの言葉が、胸の奥で疼いた。強い? 私はただ、必死に引き金を引いただけだ。お爺さんを守れなかった。ただそれだけだ。
どれだけ時間が経ったかわからない。
外の街の物音が遠く聞こえる中、私は深い眠りに落ちた。
目が覚めたのは、昼過ぎだった。
窓から差し込む陽光が、埃っぽい部屋を白く染めている。体中が砂と汗と血の匂いで固まっていたけど、まずは荷物を整理しなければと思った。
お爺さんの遺品を広げる。玉の欠片がいくつか、香料の小袋、わずかな銭、使い込まれた環首刀。そして私の荷物——敦煌で仕入れた交易品の残りと、水袋、干し果物の最後の一握り。レーザーガンは無事に充電器と一緒に懐に。バッテリー残量表示はまだ「8」だけど、充電器の原子力電池が明後日には満タンにしてくれるはずだ。
私は一つ一つ丁寧に触れた。
環首刀は、刃に細かな傷がたくさんある。きっと何度も砂漠を往復した証だ。短刀は賊のもの——血の跡を拭ったはずなのに、まだ指先に鉄の匂いが残っている気がした。私は刀を左腰に差し、短刀は腰の後ろに差した。これからは、いつでも抜けるように。
資金を確保しないと。この街で交易品を売って、路銀にしなければ。
私は胡服の埃を払い、顔を井戸水で洗った。掌で頰を触ると、以前より頰がこけている気がした。丸顔が可愛いって言われてたのにね……鏡を見たいような、見たくないような気がした。
市場へ向かう道中、すれ違う人がちらちらと私を見る。
商人風の男が、路地の影からじっとこちらを見ているのに気づいた。値踏みするような目。日本にいた頃の私なら、ちょっとドキドキしながら視線に気づかないフリをしただろう。でも今は、無意識に目を細めてその男を見つめ返した。
男は一瞬、びくりと肩を震わせた。
そして、慌てて目をそらして人混みに紛れた。
……私の目つき、変わったんだろうな。
胸の奥で、静かにそう思った。
お爺さんの血の感触が、まだ掌の中心に残っている。砂漠で失った「明るさ」は、もう二度と戻らないのかもしれない。でも、それでいい。
一人で生きる覚悟を、もう一度、ちゃんと胸に刻まなきゃ。
私は背筋を伸ばし、市場の喧騒に向かって足を進めた。
楼蘭の風が、胡服の裾を軽く揺らしていた。
お読みいただきありがとうございました。
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