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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第3章4節

老商人のまぶたがゆっくりと開いた。土気色だった顔に、わずかながら血の気が戻ってくる。

「…………ここは……?」

かすれた声が、砂漠の夜風に混じって聞こえた。私は膝をついたまま、思わず身を乗り出した。

「大丈夫ですか? 水、飲めましたか? もう少し……もう少しだけ、動かないで」


老人はぼんやりと私を見つめ、それからゆっくりと上半身を起こそうとした。私は慌てて肩を支えた。胡服こふくの袖が砂まみれで、意外と薄い体つきだった。

「嬢ちゃん……お前、……敦煌とんこうの……緑洲楼りょくしゅうろうの……?」

その言葉に、私の胸がどきりと跳ねた。

「え……?」

老人は乾いた唇を湿らせながら、かすかに笑った。

「覚えてるぞ。あの旅籠で、親父さんと小明シャオミンの話をしてた元気な娘だ。西へ行くって言ってた……娘一人でタクラマカンを越えるなんて、冗談だと思ったが……本当に来てたのか」


敦煌の記憶が蘇った。旅籠の座敷で、酒を酌み交わしながら西の道を話していた白髪の老商人。あのとき、親父さんが「気をつけろよ」と声をかけていた人だ。

「本当……敦煌で会ったお爺さん……!」

私は思わず声を上げた。砂漠の真ん中で、たった一人の知り合い。胸の奥が、熱くなった。

「奇遇ですね。でも、今はそんなことより……動けますか? ここ、ちょっと岩場が近いんです。廃墟みたいなところがあるから、そこで休みましょう」


老人は頷き、私の肩に体重を預けた。杖を拾い、私が支えながらゆっくりと歩き出す。荷物は老人の分も合わせて、私の巾着袋に無理やり詰め込んだ。足元がふらつく。水はもうほとんど残っていない。でも、後悔なんてなかった。

すぐに砂丘の陰の古い石壁の残骸にたどり着いた。楼蘭に向かう交易路の廃墟。もとは何だったのかもわからない——風化して半分砂に埋もれた小屋のような建物。屋根は崩れ、木材がいくつか転がっている。

「ここで……火を起こしますね」


私は老人を壁際に座らせ、近くの枯れた低木と廃墟の木材を集めた。山岳部で行ったキャンプでやった、火起こし競争がここで役に立った。ボロボロの低木を石を打ち付けてほぐし、火口石を打ち、慎重に火を熾す。パチパチと小さな炎が上がり、廃墟の闇を橙色に染めた。

「よし……これで少し暖かくなるはず」

私は上着を脱いで老人の肩にかけ、わずかな水袋の残りを老人に差し出した。老人はゆっくりと飲み、息を吐いた。

「ありがとう……嬢ちゃん。お前のおかげで、命拾いした」


炎が揺れる中、老人は目を細めて私を見た。

「名前はちょう……張老ちょうろうとでも呼んでくれ。楼蘭の交易商人だ」

私は火のそばに座り、膝を抱えた。

「私、柚です。敦煌の旅籠で働いて、準備して……でも、砂嵐で……お爺さんを見つけたときは、本当に……」

声が少し震えた。老人は静かに頷いた。

「放っておけなかったんだろう? お前の目、敦煌のときと同じだ。小明のひったくりをとっ捕まえたって聞いたよ。困ってる人を放っておけない目だ」


それから、老人はゆっくりと昔話を始めた。火の音と夜風だけが、静かに耳を傾ける。

わし楼蘭ろうらんで生まれた。楼蘭は昔、もっと賑やかだった。オアシスの水が豊かで、胡人と漢人が行き交い、絹や玉、香料が山のように積まれていた。儂の妻は同郷の娘でな……名は蘭花ランファ。花のように美しい女だった。一年ほど前に……他界してしまったが、最期まで笑顔で儂を送り出してくれたよ」


老人は乾いた指で火を突きながら、遠い目をしていた。声に、静かな寂しさが滲む。

「息子は随分前に酒泉しゅせんに出て行ってしまった。楼蘭の道は厳しすぎるし、オアシスも小さくなってきているからと。今はそこで家族を持ってるらしい。何年か前に、手紙が来た。孫が生まれたと……名前はまだ知らんが、元気に育ってるそうだ」


私は黙って聞いていた。火の熱が頰を温める。敦煌の旅籠で、みんなの温かさに包まれていた日々が、急に遠く感じた。でも、今、この廃墟で、老人の声が優しく響く。

「楼蘭には……もう、家だけが残ってる。蘭花がいなくなり、息子も去って、ただの空家みたいなもんだ。でも、儂は楼蘭に帰る。なぜか分からんが、あの家の土壁に触れると、昔の、妻と息子がいた家に帰った気がするんだ」


若い頃は隊商に入っていたが、実入りの少なさと仲間内の喧嘩に嫌気が差して抜けてしまい、以来一人で交易をしているとのことだった。

苦労話も、じっくりと語ってくれた。砂嵐で三日間閉じ込められた話。楼蘭に持ち帰った品を高値で売り抜けたときの駆け引き。敦煌の市場で出会った漢人の商人と朝まで飲み明かした思い出。すべてが、砂漠の夜に溶け込むように静かで、温かかった。

私は聞き役に徹した。時折「へへ、そうなんですか」と相槌を打つ。胸の奥が、じんわりと熱くなる。砂漠の孤独が、ほんの少しだけ和らぐ。でも、同時に、予感のようなものが胸をよぎった。


「明日の夜中には、楼蘭だ。あと一息だぞ、柚。儂と一緒に、生きて辿り着こう」


(また……一人になるのかな……)

老人は明日には楼蘭に着くと言った。でもそこから、私はまた西へ。たぶん一人だ。温かい声が聞こえなくなったら、また砂と星と骨だけの世界に戻る。でも家だけが残る楼蘭から老人もまた、一人旅立つのだろうか。


夜が更け、火が小さくなってきた頃、老人は静かに言った。

「柚……お前は強い子だ。儂よりよっぽど強い。でも、強さだけじゃ生きていけない。誰かと分かち合う心を、忘れるな」

私は頷いた。言葉が出てこなかった。火のそばで、そっと目を伏せた。

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